「ほっ」と。キャンペーン

カテゴリ:大ピアニストたち( 10 )

ガーシュインのピアノ協奏曲  オスカー・レヴァント

a0041150_16273961.jpg私がキーボーズをやっている時に、一部批判的だった人たちに「将来それでどういう風になりたいわけ?」とよく聞かれて「そりゃ、歌って踊れるピアニストでしょ」とジョークで返していたが、歌って踊れるピアニストなんておそらくオスカー・レヴァント(OSCAR LEVANT,1906~1972)以外には誰もいない。しいて言えばダドリー・ムーアだがクラシックのピアニストとしてはイメージが弱い。

レヴァントはある意味ホロヴィッツやルービンシュタインよりも有名人である。それは映画史に残るような不滅の名画に多数出演しているから。特に有名なのはジーン・ケリーと共演した「巴里のアメリカ人」。ここではかなりパロディ的な演出でありながら、ガーシュインのピアノ協奏曲の3楽章を良い調子で弾いている。フレッド・アステアとの「バンド・ワゴン」では、なんとあの有名な「ザッツ・エンターテインメント」という曲をアステアたちと歌っている上に、ピアノを弾くシーンがほとんどない(笑)。そしてガーシュインの伝記映画「アメリカ交響楽」。

a0041150_16365627.jpg「アメリカ交響楽」はガーシュインの死後8年で作られた映画で、関係者の何人かはその本人が実名で出演しているのが驚きの作品だ。ラプソディ・イン・ブルーを委嘱し初演したポール・ホワイトマン然り、そしてガーシュインの友であったレヴァントも然り。レヴァントもまたここで伝説上の人物の1人として登場して、ガーシュインの名曲の数々に生き生きとした輝きを与える演奏を行っている。実際ラプソディ・イン・ブルーやピアノ協奏曲を今日までの人気曲にした功績は、レヴァントの演奏にあったといって過言ではないだろう。ガーシュインの死後に行われたメモリアルコンサートで、レヴァントは協奏曲を弾くのだが(録音あり)、それ以来この曲はレヴァントの名刺代わりの曲となる。左のコステラネッツ指揮での1942年の録音は決定的なものとして知られているが、44年4月2日のトスカニーニとの共演ものも手に入る。私はガーシュインの協奏曲といえば、若き日のアンドレ・プレヴィンの演奏が大好きだが、その時の指揮者がこのコステラネッツ、さらに言えばあのガーシュインのメモリアルコンサートで、レヴァントとこの協奏曲を共演した指揮者がアンドレ・プレヴィンの父親だったのだ。その影響の大きさやめぐり合わせの面白さも感じるが、やはり伝統は受け継がれるものなのである。

a0041150_16571461.jpg彼のピアノは映画を見ていても、特別に繊細だったり、音がきれいだったりするわけではないが、やや速めのテンポで、迷いのないストレートな解釈でわかりやすい。味わいがあったり奥行きがあったりする感じではないが、それでもおそらく直感的なものとセンスで、あらゆる楽曲をそれなりに料理できてしまうプロフェッショナルだ。ショパンやプーランクをソロで弾いたCDもある。それらCDを聴き比べてどれも落差があまりない。特に上のガーシュイン・アルバムは輝いている。こちらも名演だがオーマンディとのラプソディ・イン・ブルー、アイガットリズム変奏曲や3つの前奏曲でも妙な叙情性を捨てたシャープなスタイルが心地よい。ちなみにトスカニーニ盤のラプソディ・イン・ブルー(1942:ライヴ)のほうはピアノが若き日のアール・ワイルド、クラリネットがベニー・グッドマンという顔ぶれ(笑)。なのに思ったほどではなかったりするのが、また面白い。

a0041150_18371913.jpga0041150_17102298.jpgオスカー・レヴァントがかなりな実力を持っていたことは、まずはこの1947年のチャイコフスキーとグリーグのピアノ協奏曲のCDで認識できる。同じ頃に録音されたルービンシュタインのグリーグを聴けば、レヴァントのほうに軍配が上がっても良いと思う。解釈も期待以上に的確で普遍的だ。彼がいわゆるハリウッド的な活動をしたために、ピアニストとしては正当な評価を受けられていないと嘆く人も多い。作曲家としてスタンダードも残す一方で、クラシカルな作品も多く遺し、このコープランドのCDで室内楽に参加していることも、知られているようで知られていない。この他ミトロプーロス指揮のアントン・ルービンシュタインの第4協奏曲もあると聞く。

a0041150_17133065.jpgTVでも自分のショウも持ったり、人気もあり、こうして華やかに楽しく幸せな活動をおくったとしか見えないレヴァントだが、映画の撮影においては自分の失敗や鬱憤を人のせいにして、あたり散らかす最悪の人間ぶりを発揮したらしい。本人自体も異常なまでの心気症で、いつも「あそこが痛い」「ここが痛い」と騒いで悩み、他人に迷惑をかけていたようだ。よく考えればピアニストである。それが俳優としてエンターテイナーとして、それもハリウッドで第1線に君臨するには、耐え難いストレスがあってあたり前と同情もできる。50年代に最初の心臓発作が起こり、活発な活動はストップせざるを得なくなった。まさに本人が気に病んだ通りになってしまったわけで、さらに薬漬けへと進行してしまったようだ。次の発作で亡くなるのは1972年のことだから、晩年は大きな苦しみが彼を襲っていたに違いない。

「何がその人にとって幸せなのか」ということは、他人には絶対にわからないし、本人にもどうすることもできないものだ。華やかで幸せそうに見えたとしても。
by masa-hilton | 2007-08-22 00:16 | 大ピアニストたち

ショパンのバラード全曲  スタニスラフ・ネイガウス

a0041150_1720593.jpgスタニスラフ・ネイガウス(STANISLAV NEUHAUS,1927~1980)は、リヒテル等の師であったゲンリッヒ・ネイガウスの息子として知られていたが、その後ブーニンの父親ということで、特に新たな脚光を浴びることになってしまった。ソビエトではどうであったかは別として、日本ではピアニストとしては全く評価されていなかった存在であったし、その実力をして超一流とは言い難いのは今も同じであろう。テクニックも弱いし、パワーがあるわけでもない。精神的な面でも弱さがあり、長い曲でも最後までしっかりと緊張感が続いていかない時もある。ここで巨匠の1人として扱うのも考えさせられる存在かもしれない。

それでも彼の演奏には捨てがたい「何か」がある。完璧な演奏でも「何か」がない演奏家のほうが多いわけで、そうした反動でもあろう、スタニスラフの演奏は続々と復刻されることになり、多くの人によってその実力が認知され、最近は人気も高くなってきている。

a0041150_17464020.jpgその「捨てがたい」ものがかなり本質的なものであるように、私は思う。私はこの人を芸術家として高く尊敬している。まず、現代において失われつつあるノスタルジックな情感だ。温かさとか歌い回しとかそういったものでない、内から溢れてくるようなもので、それはなかなか得がたいものだし、それには大きなスケール感もないと表出できない。かつての巨匠達が持っていたロシア的なロマン性、ピアニスティックな響きの魅力。それがホロヴィッツやリヒテル、ギレリス等の手の届かないレベルじゃなくて、わりと凡人に近いところで再現されるために、もっとわかりやすく、共感も増して享受できる。1969年のモスクワライヴでのスクリャービンの演奏等はその良い例で、このピアノの響きはロシアの音そのもの、エチュードはホロヴィッツやアシュケナージ等のアプローチよりもずっと音楽的で、ソフロニツキーのように悪魔的でもない。8-2の歌なぞはただ濃厚なだけではない複雑な叙情性を見せて素晴らしいし、第4番のソナタもジューコフのような冴えはなかったが、この曲の核心をとらえた弾き方である。

a0041150_1761663.jpg彼の演奏は、平たい言葉で恐縮だがとても人間的なものだと言える。特にこの4曲のバラードは、幾つかの崩壊した部分を含めて、真に迫ったドラマティックさにとても惹かれるし、喜怒哀楽に結びついた自然な高揚が、伝統的なロマン的な演奏法と結びついて憧れさえ覚える。このCDは彼の最後のコンサート・ライヴ(死の6日前)ということで、聴きようによってはセンティメンタルな気分で聴いてしまいがちだが、彼の遺した録音の中でも私は好きなものだし、優れているとも思っている。

また今ひとつクリアーに表現されていないが、アイデアに満ちた解釈のセンスも秀逸だと思う。それは優秀な弟子達にきちんと継承されていて面白い。私はE・モギレフスキーのシューマンのクライスレリアーナ第1曲の演奏で、中間部でペダルをあげてしまう解釈が大好きだったが、それは師であるS・ネイガウスの解釈だった。同じく深々としたルプーのみずみずしいが落ち着きのある叙情性も、本来この師のスタニスラフの持つ音楽への共感を受け継いだものだ。

a0041150_16482891.jpg私は若い頃、モスクワの先生を紹介して下さるという話があって、どうしてこのS・ネイガウス(写真・左)を選ばなかったのか?と大きな後悔がある。今こうして彼の演奏を聴けば、私の心にこんなに共感が宿るのだから、成果が上がらないはずはない。彼の下で勉強できれば私の人生は全く違ったものになっていたかもしれない。結局E・マリーニン(写真・右)を選んでしまって、この食えないおやじは少々意地悪で(笑)、私が精神的に落ち込みスランプになる要因を作ることになった。その後ステファンスカに温かく育ててもらえなければ、私はそのまま死んだままだったことだろう(笑)。しかしS・ネイガウスが人格者であった保証はない。国内でゲンリッヒ・ネイガウスの息子ということでのプレッシャーもあり、ピアニストとしては世界的な成果は収められないでいた彼の、人間性や精神状態はいかがだったのだろう?神経質そうである噂は聞いたし、何よりも早死されたことにも、悲劇的な彼の苛立ちが伝わってくるようだ。
by masa-hilton | 2007-05-01 03:40 | 大ピアニストたち

ムソルグスキーの展覧会の絵   レナード・ペナリオ

a0041150_2029321.jpgアメリカのピアニスト、レナード・ペナリオ(LEONARD PENNARIO,1924~2008)についてご存知の方は少ないと思う。日本ではこのピアニストはEMIのセラフィムのシリーズの廉価盤によく登場するが、彼の演奏が特別に話題になること自体皆無だといって良い。その廉価盤はチャイコフスキーやラフマニノフの第2協奏曲(2種あるようだ)、グリーグ等の有名協奏曲がほとんどで、ラインスドルフ等との共演盤である。輸入盤の方では協奏曲ではラフマニノフの3番、ショパンの2番、リストの1番、プロコフィエフの3番、バルトークの3番等も入手しやすい。どの演奏も華やかだが手堅い感じで、過不足はないものだが、録音のせいか音色に鋭さや輝きがあまり感じられないこともあって、特徴のない普通で平凡なものとして片付けられてきた。しかし、どの曲も「違和感なく普通に弾ける」ということに、どれだけの底力が必要とされるかを知るべきである。また音楽に流れているヒューマンな温かみも特筆すべきもの。廉価盤扱いということから、日本人は最初から割り引いて聴いてしまっているような感じも受ける。もともとペナリオはラフマニノフを尊敬しているということで、その演奏の共通性も本来は容易に見出せるはずだ。

アメリカでの評価はかなり高いと聞くし、室内楽でもハイフェッツらとの共演盤がある。晩年になって急に日本でホルへ・ボレ(ボレット)が有名になった例もあったが、取り上げられ方や宣伝によっては、わが国でももっと大スター的なピアニストになれたはずで残念だ。ペナリオはハリウッド系のオーケストラや野外コンサートへの出演も多く、アディンセルのワルソーコンチェルトのような作品もうまいし、当然ガーシュインの演奏も得意。ただラプソディー・イン・ブルーはかなり素晴らしい演奏なのだけれども、編集ミス?でカデンツァの部分だけモノラル録音ではめられている。この他にもガーシュインの第2ラプソディやアイガットリズム変奏曲もあり、これらの作品はペナリオの演奏によって初めて知った。

a0041150_16211532.jpg最近このペナリオの若い頃の本格的な演奏を集めたボックスが発売され、彼の今まで知らなかった部分を聴くことが出来て興味深かった。この中の「展覧会の絵」は、今までのペナリオの印象とは違う大きなスケールを持った多彩な演奏で、内容も充実していて優れた印象。またショパンのソナタの2番等も格調が高かった。中には「前のめりな」物もあったりして、感情の起伏も充分感じられて面白い。英雄ポロネーズは従来のペナリオらしいものだが、ワルツ集はやや強引な表現もみられる。デビュー録音のプロコフィエフの「つかの間の幻影」は純度の高い演奏で、このピアニストの質の高さを改めて認識した。シューマンの幻想曲やリストのソナタ、フランクの前奏曲・コラール・フーガやラヴェルのラ・ヴァルス、バルトークのソナタ、さらにはジャズ風な自作の曲も入っていて、大いに楽しめる。

a0041150_20101753.jpg実は私が彼に興味をもつ理由は、クラシックピアノ曲の最初に買ったLPが彼による名曲集だったゆえだ。ハンガリア狂詩曲の第2番、ラ・カンパネラ、愛の夢、月の光、幻想即興曲、英雄ポロネーズ、別れの曲、アンダルーサ、火祭りの踊り・・・ピアノ曲の通俗名曲を最初に聴いたのがペナリオによるもので、これが今聴いてもかなり良いレコードなのである。特に、ここ最近になって注目が高くなったシュトラウス=エヴラー編の「美しき青きドナウ」まではいっていて、これが大変ステキな素晴らしい演奏。そのすりこみのせいかアムランが弾こうが誰が弾こうが、このペナリオの弾く演奏を超える印象は持てないし、私はこの曲を小学校の2年生ぐらいから知っていた(笑)。このレコードを聴くと、子供の頃の色々な思い出が蘇ってくる。当時は楽しいことよりも辛く厳しいことの方が多かったので、ペナリオの温かな音色は大いなる慰めだったし、いつかこのような曲を弾けるようになるのかな?という憧れでもあった。余談だが彼自身の編曲物もいくつか世の中に出ていて、そちらの方から彼の名前を知った人も多いかもしれない。奇をてらわずに、いかにも「華麗なるピアノ」といった風情は、将来的にはもっと認知されるようになるかもしれない。

1986年にはデビュー50周年記念コンサートがあったようだが、もともと12歳でデビューした神童である。ラフマニノフの死後、最初に協奏曲のすべてを録音したピアニストであり、アメリカでは絶大な人気があって、グラミー賞なども受賞している。こうした業績の大きいピアニストが、全く軽く扱われてしまう日本の状況は、いったい誰が正していくのだろうか?
by masa-hilton | 2007-02-10 11:31 | 大ピアニストたち

ショパンのマズルカ全曲   アレクサンダー・ブライロフスキー

a0041150_231763.jpg前回取りあげたマルグリット・ロンはショパンの協奏曲第2番を歴史上最初にレコーディングしたと言われている。フィリップ・ゴーベール指揮のパリ音楽院管弦楽団共演の1930年のものだ。では第1番は?というとロシアのピアニストで、ショパンのスペシャリストとして知られたアレクサンダー・ブライロフスキー(ALEXANDER BRAILOWSKY,1896~1976)のものとなる。ユリウス・プリュヴァー指揮ベルリンフィルの共演、1928年の古い録音としては非常に良く弾けている名演の1つだし、かつては比較的簡単に手に入った。さらにブライロフスキーはそのあと2度もこの曲をレコーディングしているので、ショパンの協奏曲こそまさに代表的な演奏と言えるのだろうし、どれもこのピアニストの特徴が非常に良くでているものだ。繊細ではなくむしろ無骨、テンポを大きく変える独特なルバート、また生き生きとしているがリズミックな扱いにも癖が強い。3回目の晩年のステレオ録音の第2楽章は私が最も好きな解釈による演奏だ。だからといって何か特別に、音が美しいとか魂が揺さぶられるようなうまさではなかったりするのが、このピアニストの不思議なところ。リストも得意としたが、ショパンの3番のソナタやワルツのほうをやはり何度か録音している。

私がブライロフスキーを初めて聴いたのは小学生の時、ショパンのマズルカ全曲盤のLPでだった。これが未だに頭から離れない。言ってみれば私のマズルカの基本となるものを、ここですり込みされてしまった。ポーランドに行ってシュトンプカの映像を見たり、ステファンスカの弾くマズルカを間近に聴いて、ブライロフスキー流がかなり独善的なものであることがわかって困惑したが、やはり今でも大きな魅力を感じる。リズムの独特さ、そしてツボにはまった表現はとても心地が良い。そして個性が確立しているのも楽しい。こんな素晴らしいマズルカ集が今は廃盤となって久しく、本当に寂しい限りだ。

ルービンシュタインやホロヴィッツが活躍していく時代にあって、ブライロフスキーは実力的にはそれほど抜きん出るものを持っていない。ショパンのスペシャリストという評価も、本人が全曲演奏会等を企画したためで、もともとショパンの音楽が一番あっているともいえない芸風だと思う。ワルツ、ポロネーズ、ソナタ等が網羅された名曲集のLPを持っていたが、a0041150_233391.jpgこちらは好きではなかった。それでも彼が世にアピールしたのは、特に若い頃は生気に溢れて華麗であり、演奏に思いもよらない独特なアクがあって、ちょっと吸血鬼のようだが痩身なダンディぶりで、一般受けしたようである。映画の出演もあったり、お決まりの名曲がそっくりレパートリーであったりしたことで人気が高かったようだ。芸術家というよりはプロに徹した人、そしてヴィルトゥオーゾ・タイプだが、ヴィルトゥオーゾというよりは本人の持つ風格と個性がそのように見せているといってよい。2度来日していて1度目はその颯爽とした演奏はやはり魅力的であったらしいが、2度目はマネージャーの腕が悪く集客がうまくいかずに本人を怒らせたという記録がある。録音も多く、ラフマニノフの協奏曲等も弾いていて、優れた演奏ではないが、やはり解釈に個性があり第2楽章の中間部等はとても納得がいく。まだCD化されずに埋まっているショパン練習曲集やハンガリア狂詩曲全曲、シューマンの交響的練習曲などもある。

なかなかリヒテルやギレリスのようには弾くことは出来ないが、この伊達男のブライロフスキーを思うと、「大きな魅力を感じさせる何か」と明確なまでの個性やアクは、演奏の質をも飲み込めるのだと考えさせられる。充分に彼は今でもCDの中で魅力的だし、幅広くファンを獲得し続けているのだ。音楽は競争でもないし、人間が行い人間が楽しむ不確かな要素があっても、別に構わないものなのだから。
by masa-hilton | 2006-10-26 01:14 | 大ピアニストたち

モーツァルトのピアノ協奏曲第23番K.488   マルグリット・ロン

a0041150_247839.jpg私は昔からマルグリット・ロン(MARGUERITE LONG,1874~1966)の演奏が大好きだ。しかしロンの演奏は時としてわかりにくい時がある。それは1つは感情が前に出て、構成を崩してしまうことがあるからで、それは私もそうなりがちだから(笑)共感できる。実は非常に繊細な巧妙な歌いまわしで演奏されている部分が多く、その芸の細かさを見逃してしまって、彼女の演奏の面白さが伝わってこないということもしばしば。それはとても即興的で、弟子のサンソン・フランソワほど確立された個性(くせ)でもなく、ロシア人ピアニストの如くに大仰でもない上に、速いテンポ(というよりはよく回る指という印象)にかき消されるように、さり気なく進んでいくからややこしい。自分が隅々まで勉強した曲をロンで聴きなおすと、この人の凄さはよくわかる。感性のピアニストだ。一部の論評は「独断に満ちた、作者の意図を無視した自分勝手な解釈」とあり敵意に満ちているが、ロンは自分のスタイルでしか弾かないし、そこが素晴らしいところである。

a0041150_2251649.jpg弾くにも「センスのない石頭には無理」な芸風(笑)~そんなロンのフォーレが好きだ。歌い回しが惚れ惚れするのだが、これを継承したのがイヴォンヌ・ルフェビュール(コルトー門下)やフランソワたちで、この人たちが「フォーレ全集」を録音していれば、世の中は変わっていたはずだ。逆に遺したユボーやドワイヤン(ロン門下!)たちがとても生真面目な演奏で、「いいかげんな素敵さ」があまりない。そのために世界中でフォーレの曲が、ラフマニノフのように弾かれていないのだと思う。ラフマニノフの曲は、弾いた人がホロヴィッツとかだから、やはりそうした魅力的な演奏が王道として評価されていれば、作曲者の魅力も倍増していくわけだ。でもそれも好みの次元で決まって来てしまうこともあり、全てはその時代の「めぐりあわせ」のようなものか。

ロンと言えば有名なのはラヴェルやショパンの協奏曲、フォーレの室内楽、または思い切り個性的なベートーヴェン等々、これらは幾度も聴いて楽しんできたが、今回リリースされた全集ともいえない不思議なアルバムを購入して、ロンのモーツァルトの23番にすっかり魅せられてしまったのだ。そう言えばフジコ・へミングが、あるインタビューで「モーツァルトはみんな同じ曲に聴こえる」と言われたそうで、これはなかなか深く痛烈な一撃だ。今年のように「モーツァルトイヤー」と言うことでこれを商売化してしまうには、むしろ画一されたイメージが便利なのである。そんなブームなら無いほうが良いのでは?もともとモーツァルトは色々なスタイルで演奏されてきているのに、そのイメージが固定され、集約されてしまうなんて退屈で危険だし、すっかり飽き飽きして練習する気すら起こらない。そんな折この楽しい演奏に出会えた!うまい巧みな語り口でのフレージング、それも個性的で気紛れで感情的、これで演奏者の顔が見える。

モーツァルトのピアノ協奏曲というと、通の間ではクリフォード・カーゾンが神格化されている。悲しみがあるとか、天上の音楽とか・・・・確かにカーゾンは、ハスキルと並んで非常に質の高いお手本の1つで、さらに構成力も音色の感覚も優れているので芸術性も高いのだが、私にとってカーゾンはシュナーベルの弟子なのである。よく聴いていると焼き直しに聴こえて、クリエイティヴな感じはシュナーベルの方にあるように思える。その心酔する古き良き時代のシュナーベルのモーツァルト演奏よりも、さらに雄弁なロンのツボにはまるやり方!弾いたことのある人間にはさらに面白くってたまらない。それがまたお洒落に決まっているのも、多彩なタッチで弾いているということだ。味があるという意味では、私はバックハウスのモーツァルトも好きだ。昔の巨匠というのは「うまい下手」という次元を超えてしまうから、やはり凄い。

a0041150_24403.jpgあじわい・お洒落といえば新しく聴いたショパンの8番のワルツが大変な名演。こんな夢の中の舞踏会のようなテンポ設定があったとは。年老いた貴族が、昔の華やかな舞踏会を思い描き、涙しながら心の中で踊るイメージだ。どちらかと言うと大抵はつまらなく弾いてしまいがちな曲、どこか垢抜けていない感じの曲と思われがちだが、この語り口はそのイメージを払拭させてすばらしい。これ1曲を聴けただけでもこのアルバムを買った価値があるというもの。同じく初耳のショパンの幻想曲はフォーレの曲ように聴こえるからまた面白い。しかし細部までよく歌いこまれている。

先日NHK芸術劇場で、エリック・ル・サージュの弾くフルートの伴奏が実に奔放でステキだった。というかステキな感じがした・・・・だが見方によってはもしかすると、彼自身はただ普通にガンガン弾いているだけかもしれないとも見える。ならば余計に、それでいながら、日本人のピアノとのあの差はいったい何なのだろう?これは人種の差か?と誰もが容易に考えさせられたことだろう。それはもちろん個人的な才能の差である。しかしロンのような素晴らしい先達を持つ、その環境と空気に満たされた文化の差。何よりも音楽がそう語っていた。
by masa-hilton | 2006-09-09 00:38 | 大ピアニストたち

グリーグのピアノ協奏曲   ディヌ・リパッティ

a0041150_1028769.jpgディヌ・リパッティ(DINU LIPPATI,1917~1950)の演奏の中からお気に入りを選ぼうとして困った。どれもが名演なのである。一般的に言われているように、バッハ=ヘスの「主よ、人の望みの喜びよ」が神がかりの演奏であることは言うまでもないし、個人的にはラヴェルの「道化師の朝の歌」の生気あふれる演奏が大好きだ。ショパンのソナタの3番もかなり決定的な演奏だし、彼の遺した演奏には良くないものなどないと言って過言ではないだろう。

リパッティにはとても申し訳ない事件があって、私が子供の頃、彼の有名な「ショパン・ワルツ」を愛聴していたら、母親から「この人の音ブヨブヨしてて全然良くないわ。私の同級生のA子さんはもっとうまかったのよ。」と散々に言われたのである。おかげ様で何となくこのワルツ集がブヨブヨに聴こえるようになってしまった(笑)。親の発言というのは重みがあるので、気軽にいい加減なことは言って欲しくないものである(泣)。

さて実際にワルツを弾いた方はお分かりだと思うが、ショパンのワルツはやさしそうでいて、実は大変難しい。音楽的にどこまで洒脱にして良いのか、舞曲としての要素の追求、また技術もコンサート本番ではけっこう粗が出てしまう。さらにあらためて色々な録音を聴くと、普段上手な人でも良いCDでなかったりする。A子さんとやらがどれほどのものかは知らないが、そんなに素敵な演奏ができるはずはないのだ。

a0041150_10212626.jpgそんな中で非常に自然でいながら派手さも失わず、良いテクニックで丁寧に歌われたこのリパッティのものは、どう聴いても最善のものの1つである。ただ、このワルツ集のLPはいかにもデッドな室内での録音という音色がする。最近の復刻CDはその辺りの編集がまちまちなのは残念。ややリバーブが強くなっているのもあったりするのだが、私は母のせいで、その響きがある復刻盤(写真左)のほうが好き。これだと「ぶよぶよ感」は少ない(笑)。

この人が長く生きたらどんな演奏をしたのだろうか?という興味より、音楽界の図式はかなり違うものになっていただろうと感じる。そんな他人からの思いはともあれ、白血病ということで限られた寿命を知りつつ、演奏し続けた彼自身の心のうちは誰にも触れることは出来ない。その悲痛な運命のイメージの大きさに、実際の彼のピアニストとしての本当の味わいを、私たちは見失いがちなのだ、これはあまり言われていないが真実である。繊細、誠実、完全主義者というイメージがぬぐいきれず、実際の音楽は意外なほど大らかで、実はヴィルトゥオーゾ風な弾きっぷりの良さが随所に溢れているのに耳を閉ざしがちなのは、やはりやむを得ないのか?健康ならばリストやブラームスのソナタも録音したであろう。もちろん前時代のロマンティックな名人達とは違うのは言うまでもないが、近代的な要素が強いとも言えない。上品ではあるけれど、決して禁欲的ではないというのが抽象的だが良い比喩だ。また作曲にも意欲を示した人だったので、構成力にも優れている。病気だから、早世したから、不幸だから名前が遺っているのではない。そんなキワモノカテゴリーでなく、健康で大富豪でお調子者だったとしても、同じ評価を得られた人である。

a0041150_10352994.jpgグリーグの協奏曲では、一見ミケランジェリのような完成度を見せてはいるが、完全に異質。むしろ豪放に弾いていて、スケールの大きさを感じさせる魅力を持った演奏だ。もちろん骨太なタイプではないが、成熟期のギレリスのような輝かしさと深みを、抜群の音色感でバランス良く弾ききり、歌心も豊かだ。

演奏家なら誰でも、死ぬことがわかっていて録音を続けラストリサイタルのライヴ録音までやるのだろうか?私たちはこうして聴かせていただき、その悲壮な清らかで美しい魂に感動するが、残酷だ。ピアノ演奏の次元ではとらえられないリパッティの存在は、演奏家のあるべき姿を命をかけて見せている。彼が弾いたとされていた「ショパン/ピアノ協奏曲」は、実はわが師ステファンスカの演奏が長く転用されていたという事件があったが、多くの人がステファンスカを評価せず、この偽リパッティ名義の同じ演奏を絶賛していた(笑)。そんな大先生や愛好家の中途半端な耳では、きっと彼の美点のすべては見切れないということだ。最大の特色であろう音色の美しさもまた、モノラルのくすんだ録音によって完全に再現し切れぬまま、封印されている。彼の演奏はさらに神秘なものに包まれながら、永遠に生き続ける。
by masa-hilton | 2006-08-01 12:25 | 大ピアニストたち

ラヴェルの水の戯れ   アナトリー・ヴェデルニコフ

ラヴェルの「水の戯れ」はそれほど頻繁に聴きたいとも思わないが、実は大好きな曲の1つだ。しかし自分ではあまり弾きたくない曲でもある。ある意味で理想的な演奏というのが見えてしまっている曲だし、なかなかオリジナリティも出しにくいように思えているからで、それは普段学生が弾くのに多く付き合っているからだというせいもある。個性のない演奏というのはなんと言ってもつまらないが、個性の出せない曲というのも、仮にどんな名曲であってもごめん蒙る。

最初に聴いたのはギーゼキングのもの。このEMIのレギュラー盤は従来のイメージから考えると落ち着きがない。さらに1923年のSP復刻はもっと速くて泡立つような感じ。カザドゥシュのものにも同じ色合いが伺えるが、初演者のヴィニェスの冷め切ったような冴えた演奏を想像すると、前時代のピアニストがこのように「気持ちが急く傾向」で演奏することが不思議だ。ややクールなスタンダードなものはペルルミュテールのものとなるが、解釈なのかテクニックが悪いからなのか、テンションの問題なのか、このランクのピアニストだと心地よく味わうことは出来ない。つい最近購入したフォーレの全集で日本ではおなじみのドワイヤンの演奏も、相変わらずつまらない内容で「教育者のピアノ」の域を出ない。私が聴き、最初に価値ありと思えた演奏はアルゲリッチのもの。本当はミケランジェリが弾くのをずっと待っていたのだけれど発見できずに、全くタイプは違うがフランソワが愛聴盤になった。フランソワのものは詩的で、水を眺める人の心を感じさせる演奏で、またこの遅めのテンポと独特のルバートをむしろ気に入っている。それはこの曲でオリジナリティを出して成功した数少ない演奏として価値があると思うから。もともと弦楽四重奏曲にしろ、ラヴェルの作品には官能的なロマンティシズムが静かに流れる演奏が魅力的だ。そのロマン性を認めない人も多いが、それは「もり蕎麦につゆを余りつけずに食べる」わからず屋のようにしか思えない(笑)。

アナトリー・ヴェデルニコフ(ANATORY VEDERNIKOV,1920~1993)のものは、「水」というよりは「花火」を思わせるほどのもので、また新たなこの曲への感興をあおってくれた演奏だ。

a0041150_21949100.jpga0041150_21103774.jpg親を殺され、体制下で全く無名なピアニストとして過ごさなければならなかったこの実力者の本音の部分は、計り知れないだろう。「悲運なピアニスト」として、ここ10年注目されてきているが、本人にとっては「天国での苦笑い」ぐらいにしかならない。私たちはリヒテルとのアンサンブルでわずかにその名を知るだけだった。

次々CDが復刻されたが傾向がはっきりしているだけに、世評のようにどれもこれも良いとは思えない。まずこの人の演奏に「色気」とか「素敵さ」とかいうものはない。技術的に優れているので「メフィストワルツ」や「パガニーニ変奏曲」での輝かしさには説得力があるが、上っ面で聴けば確実でゆるぎなく完璧だがそれ以上のものがないようにも見える。例えばベートーヴェンのソナタでも人間愛を歌い上げる温かみやユーモアを欠いているし、ブラームスの小品や「交響的練習曲」での情感不足には不満があって当然だろう。しかしフランス物を聴くに至ると、その演奏の性質を別の面から捉えられる。「クープランの墓」でも舞曲ものよりは「プレリュード」のようなものがよい。すなわち純音楽なのである。わかりやすく言うと、音楽を通して何かの景色やイメージ等を与えようとしない、音楽・音のみの空間に封じ込めるスタイル。例えば「沈める寺」は学生でももっとイディオマティックに映像的に弾ける。しかしそれを打ち消した「無の状態」で弾けるのが凄い。イメージに左右されない高度な純音楽的表現とも言うべきこのスタイルは「月の光」にさらに明らかだ。遅いテンポの中に「無」の境地を描いていくのは、あきらかに異端ではあるが非凡としか言いようがない。

リヒテルが彼のドビュッシーを絶賛したというが、同じ「月の光」でこのスタイルを真似ているようにも思えて納得する。

a0041150_21194695.jpgそんな中で文句なく素晴らしいのは「デルフィの舞姫たち」とフランク(ヴェデルニコフ編曲)の「前奏曲、フーガと変奏」だろう。この奥行きの深い名演奏を前にしては、誰もが無力になる。加えてヴェデルニコフの最大の美点は音だ。強音の時の伸びやかな輝かしい響きは、ピアニストとしての圧倒的な説得力を持つ。これによって無類のスケールの大きさを描き出し、大曲の構成も可能となるわけで、ロシア物やヴィルトゥオーゾピース等にも名演を生む。例えば「アナカプリの丘」等でも、色彩的ではないのに光に満ちた喜びが表現されてしまう。同じことが「水の戯れ」にも言えて、戯れならぬ音の輝く洪水によって、この曲の純音楽的な表現とピアノという楽器の魅力の昇華に感動するのである。

以前ホロヴィッツがラヴェルを弾いた時、小柄な男が近づいてきて「あなたはまるでリストのようにラヴェルを弾きますね。でもそれが正しいのです。私がラヴェルです」と言われたという。このラヴェルの発言の真意が、このヴェデルニコフの「水の戯れ」の中にあると思うのは、私だけではないはずである。

最近の演奏家の演奏水準は恐ろしく高いので、頭の中で考えた理想の音楽というものに出会えることも多い。しかし好きか嫌いか良いか悪いかは別問題で、本来、考えもつかない想像を超えたその人にだけしかない個性的な世界を描くのが、アーティストの仕事ではなかろうか。そういう意味でアーティストと呼べる最後の世代に属している。

しかし古い世代とするならもっと強烈であって欲しいし、現在のピアニストのカテゴリーにあってはまた単彩である点、また一部の素人には神格視されているものの、一見深遠であるかに聴こえるのであろうベートーヴェンのピアノソナタも、楽譜のアーティキュレーションなどの再現が曖昧で実はよろしくない。このピアニストが再び幻のピアニストになってしまうことも、非現実的な話ではないかもしれない。
by masa-hilton | 2006-06-07 00:13 | 大ピアニストたち

モーツァルトのピアノ協奏曲第19番K.459   アルトゥール・シュナーベル

ここのブログでも「モーツァルトは普段聴かない」と言ったり、インタビューで「モーツァルトは嫌い」と言ってしまったりで、足立さつきさんに心配された(笑)。確かにモーツァルト・イヤー、世はモーツァルトばかりで、まさに稼ぎ時!大好きと言っていれば良いに決まってるが、それが出来ないのが私である。これぞフリーな強み!しかしモーツァルトを弾かないわけにいかないし当然好きな曲も数多くある。6月のベルリン・フィルの皆さんとのアンサンブルで選んだピアノ四重奏曲第1番はもちろん、ケーゲルシュタット・トリオ、ピアノ協奏曲の第19番は大のお気に入りだ。

この第19番は、第26番と同じくモーツァルト自身が「戴冠式」に演奏したものであるが、「戴冠式」の名前は死後出版された時に26番につけられてしまい、19番の方は一般に馴染み薄い曲に成り下がる。よって私はこの曲が一番弾きたいのだが、いつも集客を理由に却下されて、今までしぶしぶ13、14、21、24、27を弾いている(笑)。しかし私と同じく、この曲を愛してやまないと思われるのがクララ・ハスキルだ!彼女はライヴも含めてこの曲の録音を幾つも遺した。ハスキルのモーツァルトは神格化されていて、確かに表情豊かでありながらも凛とした名演。だが私は(この曲に限らず?)モーツァルトといえば断然シュナーベルなのである。

アルトゥール・シュナーベル(ARTUR SCHNABEL,1882~1951)は、晩年イギリスで活躍したこともあってそちら系だと思っている人も多いが、オーストリア領のリプニック(現ポーランド)に生まれたオーストリア人である。a0041150_024952.jpg一般には歴史的なベートーヴェンの解釈者、ベートーヴェンのピアノソナタと協奏曲全曲を史上初めて録音した人として知られている。当時としては即物的な解釈、情におぼれないという評価だったが、それは今の時代では全く当てはまらない。感情に任せてテンポはスパークしがちだし、解釈も含めてあちこちいい加減になっているし(笑)、テクニックもかなりあやしい。批評家の「ベートーヴェンも後期のものが優れている」等という意見に耳を貸さず、前期の生命力ある勢いのある曲の中に示した魅力を楽しみたい。個人的にはピアノソナタの第5番や、ロンド・ア・カプリッチョ「なくした小銭への怒り」の心浮き立つ快演がうれしい。

ところでモーツァルト信者や愛好家には怒られるが、私はモーツァルトの良い演奏に接した時、イタリア風なロッシーニ的気分を感じることがある。モーツァルトは旅を通じて各地の空気を吸収していたし、逆に彼の影響を各地に遺したということなのかもしれないが、イタリア風な情感は、彼の音楽が根っからの楽しさや音楽の喜びに満たされた時、そして器楽的ではない「歌」として演奏された時に発せられている。それは例外なくウィーンの人たちが演奏した時に限ってのことだ。誰もこんなことを言っていないが、私はシュナーベルがそんなウィーン的要素に溢れたピアニストだと思っている。モーツァルトにおけるシュナーベルはいつも陽気だ。例えばピアノ協奏曲第20番の両端楽章も明るく、悲劇的にならない。第23番の第3楽章では民族色豊かな独特なリズムを示したりもする。ウィーンフィルの人たちが持っているような良い意味での「いい加減さ」が生命力をあおる。そして緩徐楽章はことごとく遅い。かといってロマン派の様に弾いているわけでもなく深刻でもないので、まさに「歌」の様に弾いているのだ。この遅いテンポでの演奏は、実際にはとても難しいので、私たちにはとても勉強になるのだ。古い録音だが、きっと生ならば非常に味のある音と色彩で弾いているであろうことが、この第19番では十二分に感じられる。バッハをフルオケでやってしまうような大時代的なオケの前奏が終わると、弾く喜びに満たされたような自由なピアノが聴ける。終楽章のピアニスティックな自在な表情付けも楽しく、シュナーベルのモーツァルトには、現在に通じる粋があるとも思っている。モーツァルトのピアノソナタはギーゼキングの物が好きだが、シュナーベルが全曲録音していたら話は別である。この2人の演奏内容(志向)は全く異なるものなので比較は出来ないが。

a0041150_1542275.jpg余談だが←このCDのモーツァルトのピアノ協奏曲第23番では、調子に乗ったシュナーベルが第3楽章で思い切り暗譜を忘れて止まってしまう。譜面をパラリと見せてもらって再開、再開後はさらに調子に乗って(笑)弾き進む有名なもの。またカップリングの第24番のカデンツァも即興風なノリ。これもオーストリア(ウィーン)気質と思えば納得がいくし(笑)楽しい。

シュナーベルはシューマン等を弾いてもやはりウィーン的な味わいだし、当然シューベルトの小品や室内楽もうまく、注意深く聴くとその多彩な色合いが良くイメージできる。それはそうと石丸電気とかに行くと、彼のベートーヴェンの32曲のソナタが全曲、輸入盤10枚組ボックスで1600円ぐらいで売っている!買いましょう(笑)!


(後日談)この写真のCDではそのミスの部分は修正されてしまっているらしい。私はLPで持っているのだが、そうと聞けば、ぜひこの修正盤も聴いてみたいものである(笑)。
by masa-hilton | 2006-05-09 23:04 | 大ピアニストたち

ショパンのエチュード作品10-5「黒鍵」   アルフレッド・コルトー

コンクール等で意外に多く弾かれる黒鍵のエチュード。「とっつきやすいし難曲の部類でもないので」ということでの選択だろう。しかしこの曲で点を集めるのは難しい。まず冒頭のペダリングである。安定感のある踏み方は2拍目、すなわち左手のチャンチャンチャンの3番目のチャンで1拍分を踏む。でもこれをやられると思わず重くため息をつきたくなってしまう。実はこの2拍目で踏んでいくやり方は効果的なようでいて、いかにも学生的、勉強中、ノーアイデアという感じがする。2拍目の方に何らかのアクセントがついて聴こえるから音楽もワンパターンになり幼稚になる。で正しい弾き方はペダル無し。3小節目等も無い方がいい。軽やかに左手も多彩に弾けるし、右手も細かい音譜がクリアーで表情がつく。その分だけ指に負担がかかるから「難しくないから」と考えた選択は意味を成さない。

パデレフスキー版等では1拍目で踏むことを推奨しているが、こちらの方がずっと実戦的だ。それでも譜面に書いてあるほどは長く踏まない方がいいし、1拍目と2拍目に超短くペダルを使っていくやり方もあるが、やはりアクセントがつくので「指に楽」でも音楽的にはどうであろう?

子供の頃に、何人かの日本人の先生にこの曲をレッスンしてもらったが、どの先生も2拍目に踏むペダリングを強制した。私と同世代なら思い当たるのでは?これは一体なぜかと考えると、コルトー版のペダリングなのである。

コルトー版ではピアニストとしてのアプローチが魅力で、練習方法や指遣い等が非常に詳しく、コルトー自身の弾くショパンやロマン派ものが神格化されていた経緯もあり、今もなお権威あるエディションである。当時はフランス・ザラベール社のみの出版だから、作品10だけでも6000円(もっと?)ぐらいのものだったので、余計にありがたみがあった。私が大学生の頃にやっとザラベールUSA版が出て2700円ぐらいになったが、今から30年前はJRの1区間が30円の時代だから、換算して欲しい。そうした流行り&優越感で使っていた先生も多いだろう(笑)し、生前のコルトーに会った事があったり聴いていたりすれば、影響はさらに大だ。ところがコルトー自身がそのペダリングで弾いていない(笑)。晩年の録音は特定した踏み方ではないものの、1933年の録音からペダル無しのバージョンが基本である。この曲を弾く場合に最も良いやり方であるものを、巨匠コルトーが実践していないはずがない。つまりコルトー版というのは、弾けない学生のための本であって、ピアニストのために書かれた本ではないのではないかと疑うと、さらにおもしろい楽譜に見える。

アルフレッド・コルトー(ALFRED CORTOT, 1877~1962)について今の若い人等はどう思っているのだろう?詩的なピアニストとして有名だが、骨格ある解釈もうまく大曲も小品も得意。ルバートや洒落た歌いまわしも魅力的な巨匠。ただ晩年のホロヴィッツもそうだったように、録音はミスが多く彼のすべてを伝えてはいない。シューマンの「謝肉祭」とか日本に来た時の録音等はさすがに聴きづらい。a0041150_9531827.jpgそれでも未だにCDはリリースされ続け、永遠不滅の演奏家に位置されているのは、それを上回る何かがある人だから。ボクも大好きな演奏家である。決定的なショパン弾きの様に言われているが、現在では、好みが分かれるかもしれない。ソロだけでなくパブロ・カザルスとのベートーヴェンの変奏曲、マギー・テイトやシャルル・パンゼラとやった歌曲は最高だ。ジャック・ティボーとのドビュッシーのソナタではさらに真価が余すところなく発揮されている。

ソロではフランクのプレリュード・コラールとフーガが1番だろう。彼のあの演奏がなかったら、今のように頻繁に弾かれなかった曲かもしれない。最近は公開講座のCDも出て非常に興味深いが、映像付きで「子供の情景」をレッスンするものがあり、声の感じもすべてに雰囲気があり、模範演奏も限りなく詩的で感動する。もっと色々な映像が遺っていて欲しかった。

演奏の方は「お蔵入り」しているものがかなりあるらしく、これからますます掘り起こされるに違いない。まずはマズルカ全曲というのがあるらしく、私はこの一部を聴いたことがある。意外に面白味のない演奏で、その真偽のほどがわからないのだが、録音したという記録は正しいようだ。ベートーヴェンのソナタも全曲あるらしい。ライヴでは皇帝なども弾いているので、それもアリなのかもしれない。またホロヴィッツをソリストにして、ラフマニノフの協奏曲を指揮したなどいう記録も。以前コルトーのファンサイトがあって、珍しいシフラとの写真などがあり、楽しかったのだが。
by masa-hilton | 2005-08-28 02:42 | 大ピアニストたち

ショパンのバラード第4番   ロベール・カザドゥシュ

唐突だが、しばしば弾かれるこの曲は非常に難しい。少なくても、こちらが望んでるロマンティックな世界を描いてくれているピアニストは数少ない。でもそんなピアニストのレクチャーを聴いていると、かなり踏み込んだ解釈を持っていて納得させられることも多いので、要するにそれらを音で具現化することが難しいということだろう。

そうはいってもバランスのとれたアシュケナージを筆頭にツィメルマン、リヒテル、ルービンシュタイン、コルトーやフランソワ、そしてホロヴィッツ等々・・・名演はいくらでもある曲だから、余計に始末が悪い(笑)。

フランスの往年のピアニストのa0041150_2237107.jpgロベール・カザドゥシュ(ROBERT CASADESUS,1899~1972)の演奏は、その中でいつも特別なものを感じさせる。カザドゥシュといえば大変端正なイメージ、ルバートも多用せずスタイリッシュな演奏をする。ラヴェル等のフランス音楽においても大家である。でも繊細かといえばそうでもない。ソロでのベートーヴェンなどは雑な感じな演奏だし、ドビュッシーでも丁寧ではない。ドイツ音楽についてはイーヴ・ナットの影響もあるかもしれず、そのスタイルを評論家的には「ケンプ等と比べて厳しい姿勢」と評していたが、むやみに情熱的な一種の多感さを、心温まる表現とはちがう情感で弾ききったものだ。厳しさではなく、ストレートな情感がクリアーな構築感を導くのだと思われる。ドビュッシーについても雰囲気よりも直接的な表現が前に出ていて、独特である。しかし最近出たDVDで前奏曲の「花火」を聴いたが、ボクは生まれて初めてこの曲で「夜空の花火」をイメージできた。この難曲は色彩的に弾かねばならず、また技巧的にも冴えていないと、なかなか魅力的には聴こえてこない。カザドゥシュは技巧的にも荒いし、何せ丁寧でないのでただ無造作に弾いているだけという印象なのに・・・とても驚いた。バラードの4番でも淡々と何もせず、ロマンティックに弾こうとかドラマを描こうとかしない、むしろ日本人が弾く味気ないショパンに近いもの(笑)。しかしとても平凡なその風情が、不可思議にも納得のいく満足感を与えている。

「どこから見ても普通である」ことは凄い事なのである。押し付けがましくない説得力を持っている、巨匠ならではの技に感嘆した。そしてそのバラード第4番はライヴ録音なので、コーダで崩壊し暗譜を忘れてどこかの空間にワープで一発!共感は倍増した(笑)。得手不得手がある巨匠の方が好みだから。ね!

もともとカザドゥシュはお気に入りのピアニストである。モーツァルトの短調の協奏曲の激しさ、ラヴェルでのモダンで広々とした味わい、ショパンのマズルカでは泣かせる演奏を聴かせたし、ヴァイオリニストのフランチェスカッティとのコンビでは大らかな歌い合わせがすばらしい。フォーレのピアノ四重奏曲第1番がボクの最も好きな曲になったのは、このカザドゥシュとカルヴェ弦楽四重奏団との歴史的録音を聴いたからだ。

翻訳ページなのでかなり重いがカサドゥシュのサイトがあった。トップページで彼の作品が、更新のたびにいろいろと流れるのがうれしい。
by masa-hilton | 2005-07-26 17:35 | 大ピアニストたち