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休日は怒涛の観賞 その18

a0041150_11552826.jpga0041150_14331525.jpg大変嬉しいことに、と言うか、またまた困ったことに大ピアニストのホロヴィッツの新しいBOXが出る(左写真)。カーネギーホールでのライヴを41枚に集大成したもの。ということは私が持っているものが、かなりだぶっているということだ。しかし未発表ものが18枚、それにオン・テレビジョンのDVDが正規発売ということでは、買わないわけにはいかない。困ったことだよね。ホロヴィッツと言えば前にも書いた通り、私は70枚組の全集を買い(右写真)、その前のCD、その前のLPまで考えると同じものを一体いくつ買っているのだろう?少しずつ出されたライヴもここにまとめられるし、70枚組の目玉だったライヴもここに入るし・・・・やれやれ。すっかり「小出し商法」にやられてしまっている(笑)。おまけに新しいリマスター盤が出れば買っているし・・・・・。最近のピアニストはユジャ・ワンぐらいしか全く魅力を感じないので、その分ここにお金をつかっても良いのだけど。いや、非常に安いというのも買ってしまう要因の1つ。

しかしそこまで彼のピアノは魅力的なのか?と言えば、やはりイエスだ。バックハウスやアラウも好きだが、ライヴを買い進むと同じ傾向だし、より良い1種類をもっていれば良いような気がするが、ホロヴィッツやミケランジェリに関しては、同じ傾向同じ解釈であってもやはり聴きたい魔術のような微細なニュアンスに魅せられる。

ホロヴィッツに関してはオタク・ルートで様々なプライヴェート音源は持っていたし、オンテレビジョンの映像も入手していた。それが世の中に出ることは嬉しいことだし、時代を超えて変わらぬ評価であって欲しいと願っている。さらにユーチューブなどであり得ない音源が公開されてもいるので、さらに新しいBOXの出現も予感されるが、その都度また買ってしまうのだろう(笑)。東京でのライヴを目の前で聴いた限り、彼の爆音は「そば鳴り」の「それ」であったけど、CDで聴くドッカンドッカンには理由もなく興奮してしまう。要するに「凄い」のではなく、センスの良さだ。欲しいときに欲しいものが来る。これが彼を最高とする理由になる。

a0041150_1511135.jpgホロヴィッツは若いころ、壮年期、老年期と演奏には進化(変化ではない)が窺える。壮年期、もしくは入り口の老年期ぐらいが最高で、全部がそんな演奏であったらな~と私たちは望むが、基本的な解釈と嗜好は同じものである。解釈が揺らがないということでは筆頭はミケランジェリだと思う。確かに若いころは速めで晩年は重いが、それは単純な加齢の原理だと思う、そのくらいに最初から完成度の高さを示している。ただ老ミケランジェリの場合、全く同じ解釈でありながらも「重くなった」ゆえに、嗜好が変わったかのような印象を与えるときがある。それが無性に面白い。もちろん本人は面白いはずがなく(笑)、その辺りの演奏はきちんと「お蔵入り」させている。でも今ではその本人の不本意とは別に、それらが陽の目を見てしまった。色々とライヴも出てしまっているので衝撃はないが、この不機嫌そうなミケランジェリのピアノが私はまた好きだ。そして、名演奏家たちの自己の解釈への絶対的な自信もまた、そこから伺えるだろう。そして変わらぬ音色の粋を。

a0041150_17314100.jpgヴィルトゥオーゾで面白さも音楽的な表現力も傑出した天才シフラの演奏も、基本的には解釈はいつも一緒。大きな違いはライヴでのスパーク感と、スタジオ録音での落ち着きの幅。特に息子との共演では妙にケアが良かったりするわけで。またこれが一番問題なのだが、曲によって大人しいくらいの平凡な解釈だったりするので、彼の実態はやや分散される印象を受ける。グリーグの協奏曲ではこれも友人から戴いた1962年のフランスラジオ放送響とのライヴが最も激しいが、今回の1959年のフランス国立放送響とのライヴはそれに次ぐもので、正規で聴けるグリーグでは最も楽しいものではなかろうか。ところで「シフラのグリーグ」は「リストの協奏曲」とは違い、他の(スタジオ)録音はもっとぐっと落ち着いているものばかりなのだから、本当のシフラ自身の理想的なグリーグの姿はどこにあるのか?等と、少し考えてしまう。シフラが自分らしさを捨てて、大人しく演奏しているときに果たして何を思っているのか?それを探るのも興味深い。でもやはり、誰にも出来ないような爆演を期待して、日付の違う同じレパートリーのCDをこうして手にとるのであろう。

やっと大好きなフランソワのBOXを全部聴いた。こうしてBOXを聴き抜くのはとても有意義であると思うのは、演奏家の譲れない「一本の筋」をハッキリ見ることが出来るからだ。買ったは良いが、時間もないのでなかなか制覇できることではないが、絶対聴くべきものだ。

a0041150_17312826.jpg即興的で自由なフランソワと言われるが、こちらもその解釈は最初期から一緒のものだった。例えば、風変わりでとても魅力的なショパンの10-10のエチュードは、最初期の時点からフランソワ節が固定されていた。確かに夢見るような青春の歌というべきフレージング。彼はこれを生涯そのまま弾き続けたことになる。とても素敵だが意外な感じもする。そして難しい。だから晩年のころのドビュッシーなどが、ルバートの場所などがテイクで動いているのは、健康状態のせいか練習不足によるものだと思う。根本を変えて弾くとは考えにくい。そんな同じ曲が何回も再録されるのに驚く。我々がフランソワのバラード、スケルツォ、アムプロムプチュ等として、ひとまとめで聴いたものも、あちこちのテイクを混ぜてLP化されていた。新録音の起用は旧録音が存在しないからでなく、ただのディレクターのチョイスか。興味深い。協奏曲の2番やポロネーズなどはLPでも2種出ていたが、ワルツは1種、ソナタの2番もベストテイクを選んだつもりなのだろう。またLPにはファンタジーや舟歌はなかった。その辺りは何故なのかも知りたいところ。

a0041150_11555119.jpgBOXシリーズで最も感動したのはコルトーのものだ。コルトーをこうして初期のものから聴いて行くと、改めてその才能の大きさに打たれる。と同時に、ここでは私たちが絶対に失ってはいけないヨーロッパ音楽の生きた伝統に出会うことが出来る。

ここでも我々が聴いてきたコルトーの演奏は、ディレクターチョイスであって、一部のことでしかないことに気づく。すなわち誰かのフィルターを通して聴いていたようなものだったということになる。これを買うきっかけは、彼の遺した一連のベートーヴェンのソナタが復刻されたことによるけれど、そちらよりも初期のコルトーから脈々と流れてゆく音楽の時の大河に身を任せることによって、どれだけの本質がそこにあり、自分の五感に沁み渡ることか気づかされる。特に1920年代30年代の演奏の中には現在にも十分に手本とすべき演奏が多い。本当に素晴らしい。

大きな衝撃は多くのレパートリーに2種以上のテイクが存在しているということだ。ショパンのソナタの3番などはLPではなかなか日本に登場しなかったが、これも2種。フランクの交響変奏曲やドビュッシーの前奏曲の類も、あの名演以外の演奏があること自体がショックだし、今さらながらこれを聴くことで、私たちの音楽イメージは広げられた。シューマンの協奏曲、ドビュッシーの子供の領分、ショパンの前奏曲、ソナタの2番などは生涯を通じて弾いたレパートリー。さらにティボーとコルトーが共演しているフランクのソナタまでも。長く決定的な演奏と神格視されてきたこの演奏に、もう1種類あるというのは、随分と印象を変えることだし、想像すらできなかった。1923年のものは幾分薄暗い印象にゆったりとしていて、長年親しんだミスタッチもなく内容的には現代にも通じる力がある。29年のものは明るくやや気楽で、これがフランス的な洒落た感じと言えばそれまでだが、コルトー本来の解釈は旧盤のものが正しいはず。またコルトーのシューマンの市販品では「謝肉祭」が大きなほころびを持つことで、他の録音と一線を画していて、やや苦手そうにも聴こえていたが、これはLPや既出CDのデータが間違えていて、「謝肉祭」だけ晩年のものが使われていたゆえだった。「謝肉祭」はむしろ得意のレパートリーで3種の録音があったのである。

こういう発掘は評論家の仕事ではないのだろうか。こうして今、音源が出てきたことを我々までが驚くようでは、いかにこれまで情報提供がなされていなかったかということだ。本当に悔しい。そんな前時代の評論家たちに演奏を語る資格などないわけだけど、私達も同時に資料不足なのだから正しい把握が出来ていないことになる(泣)。そこへ行くと現在の研究熱心な評論家やジャーナリストは全くスタンスが違っている。だから最近の学生は幸せだ、こうしたものがすぐ手に入るようになったのだから。遅ればせながら私たちにも大変有難く、これからも積極的に聴き進んで行きたいよね。

a0041150_1156556.jpgさて次のBOXは、とても私を喜ばせたもの。ルーマニアの指揮者コンスタンティン・シルヴェストリのものであり、LPでいっぱい持っていたものが一気に再コレクションできた。シルヴェストリの日本でのポジションは二流どころというのだろうか(笑)、いくつかの良い演奏はあるが、むしろ名演奏家の伴奏指揮で知られていた向きもある。ところが昨今彼の評価がうなぎのぼり。私は若い頃から彼が大好きだったので手放しで嬉しい。

私が彼の演奏で魅了されたのはリムスキー=コルサコフのシェエラザードである。当時はカラヤンの美しいムーディな演奏が定番だったけど、シルヴェストリにはもっと「純粋な歌」がある演奏だった。これが本当に良くって、流動的な個性的なテンポ感もむしろ自然なものに感じていた。その後はショスタコーヴィッチの第五番を聴いた。これは個性的で、ある意味微妙な演奏。ムラヴィンスキーの様な緊張感はなく、いささか「間の抜けたマーラー」の様な響き、その独特なエレガンスがとても気に入ったのである。特にウィーンフィルということもあって、2楽章の典雅なルバートは明らかに場違いではあるのだが、この曲の別の魅力をアイロニックに引き出している。そしてチャイコフスキーの第5番。これはテンポ設定が可笑しく、ややムラ気なフラフラとした、ちょっとしたダサさがユニーク。私は好きだったが、高校時代卓球に負けた相手に罰ゲームとして聴かせていたりした(笑)。

一般的に彼の名演はここにもあるドヴォルザークの新世界。さらに2種クレジットされていて、特に旧録音の引き締まった情熱的な演奏は、こうして聴くとやはり圧倒的。同時にとても現代的な解釈だ。今は「爆演をする指揮者」として再評価されて人気なのだが、確かにその象徴になり得る歴史的な名演だと思う。彼は50代半ばに亡くなったのだが、長生きをしていればまたさらに面白い存在になったに違いない。もっと良いオケを手兵にできたであろうし。

こうして彼のBOXを一気に聴いた感じは、非常にモダンであるということ。先ほど話題にしたチャイコの5番ですら、昔ほど不自然さを感じない。フランス音楽なども、もともとの彼の恣意的なイメージが、むしろ現代的なセンスの良さに聴こえてくる。多様な現代でこそ大きく評価される指揮者だった。ハンガリア舞曲などのフレッシュな運びかたも抜群のセンスで垢抜けている。

a0041150_11562231.jpgやはり嬉しいのはレオポルド・ストコフスキーのBOX。指揮姿の見た目からか、巨匠とは目されていても異端、内容の伴わない派手好きな老人扱いされていて、私は昔から不本意だった。サウンドを追求しポジションを変えたり編曲まで行う姿勢が、頭の固い昔のクラシックファンを遠ざけていたのだろう、誠に残念なことだ。このBOXは1950年代の物が中心だが、ストラヴィンスキーの「ぺトルーシュカ」「火の鳥」、バルトークの「弦・打楽器、チェレスタのための音楽」、シェーンベルグ「浄夜」などは、高校時代の愛聴盤。やはり良かったなあ。今回はホルストの「惑星」や「ローマの松」など。当時としては信じられないくらいに鮮やかでみずみずしいサウンド、また音楽の語り部としての上手さも堪能した。さらに感激したのはラヴェル。これはラヴェルの音色ではないかもしれない。かと言ってアメリカ・ナイズもされていない。ミュンシュのそれよりもさらに鮮やかな原色、そして透明にされた金時計の内部が生命感を持って動き出す面白味、独特な緻密なサウンドがとても楽しかった。お気に入りだ。

a0041150_5161687.jpga0041150_5163543.jpgこちらのカペルのBOXは2200円ということで買った11枚。以前の有名な9枚組にラストレコーディングも組み入れたお得盤。私が持っていないのはバッハのパルティータが入った1枚だけだが、CDの置き場所をコンパクトにできる利点で購入。カペルの演奏は相変わらず冴えていた。ライナー指揮のR・シュトラウスも中学時代から聴いていた愛聴盤。彼の演奏で「ツァラトゥストラ」を初めて聴いた。古臭さは何もなく、豊かな内容を伝えながらもシンプルにわかりやすく聴かせてくれる名演。新たな発見は何もないが、ヤニグロをソリストに迎えたドン・キホーテの、最近の演奏からは聴けない独特の品格が実に面白い。

後日談 たまたまBSでミュンヘンフィルのライヴを見る。指揮はメータ。ブラームスの悲劇的序曲が何と言うのだろう、好みもあるけど「ぬるま湯につかリ過ぎた稲庭うどん」のような。しまりがないことこの上ない。ブラームスの協奏曲の伴奏も散漫な音楽。ドイツの地方オーケストラはもっと古風で凝縮した内容の濃いサウンドがあったはず。ここでヒンデミットの「画家マティス」が演奏されたのだが、この曲はチェリビダッケの説得力の濃い演奏が圧倒的で、他にはあまり興味を感じ得なかったが、メータ/ミュンヘンフィルのような演奏を聴いてしまうと、上記のシルヴェストリのBOXに入っている「画家マティス」が、かなりの優れた演奏であったことを再認識させる。失われた古風な響きがここにはあり、メータが冒頭で示したような官能的な表現より、ヒンデミットにはこちらの方がしっくりくる。こうした曲は平和な退廃した気分の演奏家には一番向かないレパートリー、今後ますます演奏が難しくなるだろう。それこそ他人事ではない(笑)。実際ヒンデミットには優れたピアノ曲があるのに、その割には弾かれることが少ない。それはそうした意識の現れかも知れない。私自身もヒンデミットだったら、プロコフィエフ弾くかなあ~。バルトークの作品も奥が深くて難しいが、ヒンデミットの難しさは特殊のように思える。
by masa-hilton | 2013-06-19 03:41 | 休日は怒涛の鑑賞

休日は怒涛の鑑賞 その17

a0041150_543676.jpga0041150_545250.jpgさて私が発売を心待ちにしていたアルトゥール・ルービンシュタインのDVDは、わりと見やすく復刻されて、大変すばらしいものだった。これはモスクワにおける1964年のライヴで、ポーランド人として国民を、そしてショパンを軽視した国に乗り込んでいく気概を感じさせる充実した感動的な内容。ルービンシュタインはああいう感じの人だから、ライヴだと随分失敗も多かったりもする。それを超えた人間的で音楽的な表現が良いのだが、前回オススメした謝肉祭のCDでも危ないところはいくつかあった。このモスクワライヴは葬送ソナタの2楽章で暗譜を忘れてしまうのだ。彼なりのごまかし方で切り抜けているが、CDではスタジオ録音から音を持ってきて編集して直してある。が、DVDのほうはそのままとなる。私にとってはそんなことはどうでも良く、それは本当にわずかな傷でしかないと思う。77歳とは信じられないほど確信に満ちた、豊かで豪快なステージ!これは誰にでも出来ることではない。ポロネーズ2曲の堂々たる貫禄・・・・得意の英雄ポロネーズの叙事詩のような味わいもすばらしいが、5番ポロネーズの中間部マズルカの優しいまなざしも聴き逃せない。舟歌はロマンティックだが男性的でぐいぐいクライマックスに至るが、コーダの哀感あるゆったりとしたテンポの運びはとても感動的。大人の演奏だ。アンコールに弾かれたシューマンの「夕べに」は絶品。ロマン派の演奏はこうありたいものだ。こうした小品で聴かせる絶妙な間合いも、千両役者の魅力がたっぷり。巨匠の強いメッセージが聴こえたショパン!ショパンの本来のあるべき姿が浮かぶ演奏に、映像まで遺されていたのはありがたいことだ。

a0041150_1024561.jpgもちろんショパンは叙情的なメロディメーカーであるけれど、こうして強い心からの歌で歌いきった演奏に出会うと、とても品格の高い魅力が発動される。同じ高い品格を感じさせる演奏として、ここでぜひ推薦したいのがポーランドの名手ヴィトルド・マルクジンスキーの1963年のイタリアでのライヴ(放送録音)である。このショパンの名手のライヴは何とブラームスの小品から始まっている。これが実に深々としていてすばらしい!作品118の6を冒頭に単独で聴かされて、これほど良いと思えたのも稀な経験と言えるだろう。そして続くは「ベートーヴェンの熱情ソナタ」。もともとマルクジンスキーはショパンのソナタの3番等を、雄大なスケールで弾いていた名手であるから、こうした選曲も可能なわけだけれども、ここでは熱いわき出るような情熱を渋みのある味わいの中に描いている。かなりミスが多いけれどもそれは全く関係ない次元だ。最近彼のショパン以外の録音が続々復刻されてファンとしてはうれしい限りだが、このライヴの後半のショパンを聴けばやはり本領はここにあるのだと納得させられる。ただ「うまい」とかではなく、モスクワのルービンシュタインではないが深い想いがあって、叙情的に心から演奏されている。ここにマルクジンスキーの渋みと品格が加わり、1曲めのノクターン(13番)から引き込まれてしまう。まず和声の変化に連動する心の動きが巧みである。そして部分的に見せるニュアンスによる微妙な自由さが、ショパンの音楽の核心を突いていく。夢見がちな曲のように弾かれるバラードの3番も、実在感のあるレガートな語り口が良い。欠点を言えば技術的な余裕のなさで、これが顔を出すとやや曲の成り立ちが崩れてしまうのだが、彼が何をやりたいかは十分に理解できるので、そこは補い聴くことが出来る。後から弾かれるスケルツォ第3番でもそれは同じ。このスケルツォの高潔な佇まいは、本当に真似のできない境地にある。しかし何よりも3曲のマズルカ、これが凄い。この3曲を聴くためだけにでも、このCDは手に入れるべきものだ。15番作品24-2がこんな風に弾かれるのを聴いたことがない。一言で言えば歌い抜かれているのだが、リズムといい間合いといい、まさにショパンそのもののように感じられた。17番作品24-4は名演がいくつもあるので好みもあると思うが、何とも個性的でうまさをうまさとして感じさせない曲運びが秀逸。45番作品67-4は魔法のような演奏だ。この出だしから導くテンポの動きは自然すぎて神がかっている。こういう演奏は身につけられるものなら身につけてみたい巨匠の技。伝統を学ぶというのはこういうことである。

a0041150_1047216.jpgこうしたショパンを聴くとヨウラ・ギュラーのノクターンはかなり貧しいものに聴こえてきた。いつも思うが伝説の名ピアニストとしては、ギュラーには良い録音が少なくとても残念だ。簡単には語れないピアニストであるし、演奏活動を中止していた時期もあるので、ここだけで全てを判断してはいけない人だ。このノクターンとマズルカだけを弾いた録音も、選曲自体どこか場当たり的でもあり、技術的にも説得力のない状態のままに放置されている。前回のショパンの協奏曲も彼女の真の実力から考えるとおそらく不調なものだったと思う。良い録音がないために後世、結局はライバルのハスキルに大きく水をあけられてしまうことだろう。このCDでは長調のマズルカに優れた表現力が示されているのが面白い。特に冒頭の作品56-2はスケールが大きく、巧みにかわされる絶妙な節回しが魅惑的だ。これにはまったく文句はない、素敵だ。それに比べると短調の曲は、表現そのものが落ち込んで消極的になってしまうことが多く、やはりこれは熱心なファン向けのCDだ。私には上記マルクジンスキーに遠く及ばなく聴こえた。

a0041150_10495562.jpg説得力というのは難しいものであって、巨匠ウィルヘルム・ケンプの弾いたブラームスの小品集にも疑問を感じた。晩年のケンプの弾くブラームスの小品は私のお気に入りだったのだが、こちらは壮年期の録音。技術的にもずっとしっかりしているから聴きやすいかと思いきや、これが期待はずれだった。確かに叙情性に優れ、何とも感動的な音楽が展開している。しかしまず本人が激してしまっていて、音楽の構成が見えてこないのである。こうなっては弾きようによっては難解に聴こえるブラームスの小品が、全体の求心力を失って説得力も弱くなってしまう。大ピアニストのイヴ・ナットがケンプを評して「とにかくあいつはソルフェージュが駄目なんだよ」と言っていたが「こういう状態のことを言っているのだな」と今回初めて思った。面白いことに最晩年の録音の方にはこうした不満がないし、聖域にあるような演奏家だからあまりうかつなことも言えないが(笑)、この録音があまり世に出てこない理由はその辺にあるかもしれない。確かにちょっと考えてみると、構造が明快な作品の方がケンプはよりうまい気もしてきた。

a0041150_11114183.jpgエミール・ギレリスがザルツブルグで行った1972年のライヴでは、上記ケンプが弾いている「ブラームス作品116の幻想曲」を弾いているのだが、これが繰り返し場所の暗譜を忘れてみたり、暴走しそうになって崩壊したりと(笑)、ひどく残念な状況になっているのにもかかわらず、私としてはこの曲の最も好きな演奏の1つになっている。これがちょうどケンプとは逆の理由で、構成力がすばらしくて音楽としてわかりやすい。そこにさらに心に語りかける歌や、美しい情感が示されていくのだから悪いはずがない。難解な音楽をわかりやすく聴かせられるのは、演奏家にとって絶対条件の1つだが、ギレリスはここが優れている。チャイコフスキーの協奏曲からベートーヴェンの後期のソナタまで、どの曲も非常に見通しが良い。もともとこの「ブラームスの幻想曲」はギレリスの得意なレパートリーで、レギュラー盤も含めていくつか録音があるのだが、このライヴでもミスはあっても叙情的な曲の瑞々しさは失われていない。またこのライヴでは「モ-ツァルトのK533ヘ長調のソナタ」を弾いているのだが、ご存知のようにこの第2楽章はモーツァルト全ソナタ中最大の難曲の1つだ。彼の不安定な心とその葛藤がにじみ出る曲の中で、ギレリスの表現力は実に的確である。これがうまく弾けると続く楽章に天上の救いを見ることが出来るが、ギレリスはそれも見事に成功させている。ドビュッシー「映像第1集」は男性的なたくましい表現で、奥行きを感じさせてダイナミックなアプローチ。この個性的な味わいは悪くない。「ペトルーシュカ」は力強く輝かしく、ただただ技巧的に凄くて無機的なものになる傾向ではなく、曲の持つ土臭さも見事に表現をしていた。

a0041150_2501481.jpgギレリスのような人でも、ライヴCDには驚くほどの失敗があるものが少なくない。現代の演奏家は便利な交通手段ゆえに、毎日でもコンサートが出来るわけだが、スケジュールの密集が演奏会の集中力を下げてしまうことはやむを得ないことだ。それを避けるためにはミケランジェリのように、解釈を固定してそれを毎回作り上げる緊張感を持つのも良い。また個性的な演奏は、そこに意気込みが生じてテンションも上がる。技巧派と呼ばれる人は「賭け」みたいな部分でいつも緊張感を持っている。または高い完成度を求めて、感情を捨てたような演奏をしている人もいる。逆にバックハウスのように、自然なスタイルの巨匠的な演奏タイプは、毎回フレッシュな気持ちで演奏していても、結局似たり寄ったりの演奏になってしまったみたいなこともある。一番凄さが目立たないタイプ、このクラウディオ・アラウのライヴがそうだった。「熱情ソナタ」と「ヘンデル・ヴァリエション」は特にすばらしい演奏なのだが、以前購入したライヴとさして変わらない。さらにその他のソナタは、いかにもアラウなら弾きそうな演奏そのもので、新鮮味は感じられない。上記ミケランジェリのように、いつも同じ曲をほぼ完璧に同じ解釈で弾いていく場合にも「新鮮味」はないけれども、個性的なものは強いので興味が尽きない。アラウに対して感じられない「新鮮味」というのはまた別で、むしろ最初から聴く側が「アラウならどう弾くか」という感じの期待感を持って接していないからであり、聴くべきところも違うのである。

a0041150_2322439.jpga0041150_2323953.jpgここにあるのは良い意味で常識の中にある音楽である。クラシックであるからには、常識の中であたりまえに演奏されるものにも大きな価値があるはずなのだが、やはり聴き手は刺激的なものに弱い。それがまた「才能の証明」に繋がっているように感じる。この辺りのことは難しい。演奏家すら惑わされてしまうことがある問題だ。私たちは基本的にオーソドックスな普遍的なものを軽く見るようなことは絶対にない。それでも時に、自己向上ゆえにその枠組みから出てしまうこともある。それはポゴレリチやアファナシエフのような強い意識の中での行動でなくても、例えば過激な環境や刺激の中にいると、自然に自分の音楽の方向性が変わってしまうようなこともあって恐ろしい。ネルソン・フレイレの最近の「シューマン・アルバム」はもしかするとそんな状況での演奏かもしれない。このすばらしいピアニストのいつものフレッシュで豊かな音楽性がここではあまり聴かれず、アルゲリッチの強い影響を受けたか、または若いずば抜けて高い演奏力を持ったピアニストに対抗しようとがんばったのか、刺激的ではあるがキーシンのシューマン等に聴くドライな「楽器の音による未来建築」のようなものと同質になった。私自身の「コルトーやルービンシュタインのようなロマンティックな演奏が好きだ」という個人の趣味を差し引いて、ただ解釈のことだけを考えてもしっくりいかない。例えば「謝肉祭」の理想的な解釈は放送録音で遺されたマイラ・ヘスの演奏だろう。このヘスはアラウに比べてもさらに普遍的であり、その説得力の前では「ヘスならどう弾くか?」等という期待も全く必要がないことがわかる。

a0041150_2105218.jpgでは今一番刺激的なピアニストの代表としては、中国のユジャ・ワンで誰も異論がないと思う。その驚異的な演奏力からして、男性はランラン、女性ならこのユジャ・ワンと、中国のピアニストによって世界は制覇されたといっても過言ではない。この二人は共にゲーリー・グラフマン門下。興奮すると若いから弾きまくってしまうこともあるが、ランランの方は爆発的な直接的な演奏になるのに対して、ユジャ・ワンのほうは仕掛け花火のようにさまざまな場所から閃光が繰り出されるような演奏になるのが面白い。二人とも落ち着いているときは、ランランには「歌」や「音楽」が前面に現れ、ユジャ・ワンには成熟した的確な「解釈」と「構成力」がある。そのユジャ・ワンのCD、そして同じ曲目を含むBSでの演奏をほぼ同時に鑑賞。

CDのほうは、批評や売込みによるとかなり個性的な大胆な演奏ということであったが、もしそういうことならば若いころのアルゲリッチの方が格段にインパクトがあるだろう。あのような嵐が巻き起こるような強烈な個人的エモーショナルで弾かれた演奏ではない。もちろん恐るべき演奏力で繰り出される音楽は普通レベルではないのだが、ここにはきちんとしたオーソドックスな視点が確実に存在している。むしろそこがこのピアニストの恐るべきところで、この演奏にただならぬ説得力を与えて、演奏の過不足・欠点もこの人の1つの個性として受け入れさせてしまう。例えばである、録音または楽器のせいかもしれないが、右手の和音等の上の音の音量や輝きがやや不足がちに聴こえた。その辺のピアニストならば、それはショパン等でのロマンティックな世界の情感を妨げ、リストの最高潮の盛り上がりでの力感の不足を産み出すものだが、ユジャ・ワンの場合は欠点にはならず、「ピアニストの持つ世界」の中に吸収されて、音楽の中で納得させられてしまう。最大級の音量を出さずとも、そこにはそれと同じくらい大きな心の形が見える。これは構成力の尋常ではない巧さであり、何よりも普遍的な解釈をきちんと踏まえた強みだ。

a0041150_2315776.jpgこんな「葬送ソナタ」のあとで聴いたアナトリー・ヴェデルニコフのショパン・アルバムが、何かつまらない演奏に聴こえてしまったから怖い。ヴェデルニコフはいつものヴェデルニコフだから、もちろんロマンに身を焦がすような演奏ではないので、どちらかと言うとショパンのレパートリーは苦手なのかもしれない。またここでのバラードの演奏ではアーティキュレーションがメチャクチャになっていて驚いた。もう一度、名演だと思っていた彼のベートーヴェンのソナタ等を聴きなおしてチェックしなければならないのかな?等と思ってしまったほどだ。それだけユジャ・ワンの演奏がいろいろな意味で凄いということなのだろう。

彼女の驚異の演奏技巧は、緊迫感ではなく余裕のようなものを与えている。ショパンの終楽章やリストの右手の軽やかな動きが、速いのにもかかわらず、スピードが感じられないほどにゆとりがある。人によってスクリャービンはその世界が描き切れていないというような意見もあるが、このゆとりのある運びがスクリャービンの持つギリギリの濃厚さとは異質に思わせるのだろう。しかし私は高く評価する。映像で見るとさらに明らかだが、「ラ・ヴァルス」等で興が乗って自由自在に弾かれていても、もともとの構成力が物をいい、曲全体は1つのストーリーとして完結する。スクリャービンもそうだ。彼女のスクリャービンはまるで「私小説」のような味わいがある。これは今まで誰もやらなかったアプローチだが、これも確かにスクリャービンの世界にある語彙だと思う。ピアノでつむぐ「私小説」・・・なんて魅力的なのだろう。仮に私たちの持つイメージと離れたものを弾いたとしても、そこには心があり、イメージが広がり、聴く楽しさも存在してくる。

映像のほうでは全体的に、より強靭な音が示されて迫力の不足は感じさせない。何と手首の強いことだ。そして二の腕から肩の柔らかさ、これが超人的なテクニックの源泉だろう。そしてやはり広がりのある構成力がすばらしい。十分に歌ったロマンティックな情感とからんで見事な昇華。名演として弾かれていたリストソナタの後半で、とても残念な崩壊があったのだが、私にはそんなことはどうでも良い。そしてその場にいた客としては超絶技巧曲に目が行くのも当然。それはそれで良いではないか。映像を貼れば、その折に弾いた「くまん蜂が飛ぶ」や楽々と弾く「ペトルーシュカ」。

a0041150_284132.jpgランランもそうだが、見た目には東洋人だから我々に近い彼ら。しかし日本の若いピアニストとは絶望的な差が開いてしまっていると思われる。先だっての浜松コンクールでは今度はすばらしい韓国の若手たちに驚かせられたし、いつの間にか置き去りになってしまった日本。後進国にならないためにも、同じ方向ではなく、何か価値のあることを探さないといけないと思う。

笑い話なのだが、同じワンだったのでユジャ・ワンと間違えて買ってしまったこのCD。こちらの女性はシャイン・ワン。この演奏は日本人の優れたピアニストなら十分に可能なレベルだ。もちろん悪くはない。真摯な演奏態度で技術も確か。だが、これこそ本来のスクリャービンの世界とは全く異質なものであろう。全体的にはとても幸せな響きがする音楽だ。どちらかと言えばドビュッシーの初期のころの色彩感を感じさせて明るい。なのでどの曲も、とても親しみやすい次元に還元してしまっているので、好みは別れよう。

a0041150_291583.jpgさて最後に大穴の推薦盤を。トルコの女流ピアニストのギュルシン・オナイのチャイコフスキー1番とラフマニノフ3番のコンチェルト。この2曲については、よっぽどじゃないと聴く気もしないわけだが(笑)、これは「あたり!」だ。まずピアノの音色がすばらしい。気持ちがこもっているし輝きに満ちている。そしてフレージング1つ1つがとても魅力的で、どこも溢れる歌に満たされている。技術的にもとても素敵な冴えがあり、ヴィルトゥオーゾな華やかさと存在感がある。「こりゃすばらしいのでは?」と思って聴いていると、ある部分でちょっとオケの中に隠れたりするところがあったりしたから、「ああ、これがもしライヴだったらなあ。十分許せるし、むしろ奇跡みたいな演奏じゃないの」なんて思っていたらライヴだったのである。オナイはトルコではかなりのスターらしいが、日本では認識されていない。とても残念だ。昨年12月にも日本にやってきて、僅か大使館と知己があったらしい地方公演1つだけで帰ったらしい。この人が日本で有名になるには、まず名前の読みを「オネイ」にすべきか(笑)。このジャケットを見てもきっと素敵なハートを持った演奏家(人)だろうし、何より今後大いに認められて欲しいイチオシの演奏。オネイさん!また来てね。

by masa-hilton | 2010-01-16 05:18 | 休日は怒涛の鑑賞

休日は怒涛の鑑賞 その16

a0041150_3114585.jpgまずは新しい演奏家のを1つ。最近のロシアの若いピアニストの中で、最もその才能が期待されているエフゲニー・スドビンの弾く、ラフマニノフの第4協奏曲の初版によるものとメトネルの協奏曲。私はラフマニノフの4番が大好き。これは一重にアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリの華麗な超名演が存在するからで、これはピアノを弾く人間の聖書とも言える音の至芸である。またタマーシュ・ヴァシャーリのスローなテンポの4番も大のお気に入り。こうした名演奏があるから気になる曲の1つになっているのだが、曲自体には特に第1楽章の最後の突然の終わりとか、不可思議な部分がある。今回初めて聴いた初版は、より複雑に濃厚になっているのかと思いきや、始終ニヤケたような世紀末風な気分に満ちたもの。デカダンな映画音楽か、または失敗したマーラーか?といったようなおかしな曲だった(笑)。おそらくは「この時代」の作曲家としての「刻印」をどこかに遺した曲を書きたかったのだろう。さらに唐突な曲の進行と盛り上げに欠けた流れは、現行版を知る者としては「認められない陳腐さ」がある。これでは不評やむなしである。こんなことで曲の奇妙さばかりが気になって、ピアニストとしてのスドビンの力量もよくわからないというか(笑)、どうでもよくなってしまった。落ち着いてからまたメトネルのほうをじっくり聴いてみよう。

a0041150_3122372.jpgさてこちらは大いに感動させられた曲の話である。名歌手エリザベート・シュワルツコップと巨匠エドヴィン・フィッシャーの共演による1954年のライヴ。ライヴといっても放送用録音。この2人は2年前にEMIへのシューベルトの歌曲集の録音を行っていて、これは不滅の名盤として名高い。

フィッシャーの天使の微笑にも似た無邪気で素朴であたたかみのあるフレージング、そしてエモーショナルな音の色は現代のピアニストの大切な模範である。この54年のライヴはフィッシャー68歳。正直かなりヨレヨレの危なげのある演奏。そんな状態であっても「水の上で歌う」がこの上もなく美しかったり、思わぬ難しい曲はバッチリ弾けていたりと、さすが巨匠は測り知れない底力を持っている。ブラームスの素朴な情感もすばらしく、有名な「子守唄」や「調べのように」等にただよう巧まざる寂寥感とそれを包んでいく優しさなどは、巨匠の確かな楽譜の読み込みの正しさが実はベースになっている。特に感動したのはベートーヴェンの歌曲。このCDのお目当てはシューベルトとブラームスだったのだが、たった3曲ながらベートーヴェンに驚いた。これほど雄弁に魅惑的に深々とした曲に演奏できるとは!この演奏を聴けばベートーヴェンの歌曲の真価を誰もが認めることができるだろう。やはり巨匠たちの演奏にこそ、学ぶべき真髄がある。本当にすばらしい。


a0041150_31255100.jpgエドヴィン・フィッシャーに並ぶ大巨匠であり約10歳上のアルフレッド・コルトー。コルトーの実に興味深いライヴCDが復刻。なんと戦時下のパリで、あのウィレム・メンゲルベルクとの共演で「ショパンの2番の協奏曲」だ。

メンゲルベルクと言えば戦前のカリスマ指揮者で、濃厚を極めた個性的な表現で有名。このCDの後半には「チャイコフスキーの悲愴交響曲」が入っているが、これがまたメンゲルベルク18番であり、レギュラー盤の演奏がやや大人しい感じもあるので、この「悲愴」のライヴにも興味がわく。「悲愴」は解釈はほとんど同じだったが、ライヴの情熱が加わりより説得力の強い迫力ある演奏が展開されていて満足。濃厚なルバートはきちっと計算されていて「よくオーケストラがついてこれるなあ」と思うほどにテンポも動く。メンゲルベルグの面目躍如の名演だ。

a0041150_23565049.jpgコルトーのほうも「ショパンの2番」にはレギュラー盤があり、バルビローリとの共演盤である。このライヴではオーケストラをコルトー版の独特な解釈で演奏させている。そして超大物メンゲルベルグに対しても同じくで、あくまでも自分の解釈をやらせてしまうコルトーが、泣く子も黙る大立物だったことがわかる。メンゲルベルク盤の方のコルトーは、より「歌」のようにして聴かせる。それもかなり自己流な強引さで大暴れ(笑)。大きな音や大きなルバートも「ハッタリ」をかますようにして、左手で爆音をわざと作ってまで主張する。遠近感のあるコントラストを強く作る。これは今まで彼のスタジオ録音からはわからなかったことだ。ハッタリではない部分はとても軽く弾いている。スタジオ録音では明るく「キャラ~ン」とした音でゴツゴツ弾くイメージだから、こんな軽いタッチでの演奏は想像も出来なかった。この軽さはショパンの弟子ミクリの門下たちが持っていたあの軽さ、例えばモーリッツ・ローゼンタールの軽さ!そういう意味で、今までコルトーに持っていたイメージを一新させられるCDで、大変貴重である。これを聴いたあとにレギュラー盤を色々聴きなおしてみると、彼の演奏の新たな多彩さを実感できる。またそれが彼の本来の姿なのであろう。特に同じ曲で(バルビローり盤)聴くと、それは明らかになるので本当に面白い。個性的と思われるコルトーの演奏もまた、ヨーロッパ音楽の演奏の伝統の中にあったのだ。またあの「節目のハッタリ」は役者の大見得のようなものだから、このあたりが他のピアニストよりも大衆に受けた所以かもしれない。そしてこのライヴのミスタッチはかなりなもんである(笑)。

67歳であるコルトーはこの時期「皇帝」なども演奏していたようで、こちらも面白そうだ。1944年と言えばホロヴィッツも全盛期であるわけだから、本当に色々な演奏家が同居していた黄金時代だったわけだ。


a0041150_3132693.jpg前にもちょっと書いたが、今年はそのホロヴィッツの没後20年ということで、全盛期のライヴ等が次々陽の目を見ている。聴いてみると、やはりどれもこれもがすばらしい。

その第1弾の「展覧会の絵」「リストのソナタ」のCDはホロヴィッツそのもの。両方とも彼のレパートリーとして有名なものであるし、レギュラー盤で穴のあくほど聴いたもの。「展覧会」の方はレギュラー盤は2種あり1947年と1951年(ライヴ)の録音。今回は1948年の録音。言ってみれば47年にレコーディングを済ませ、より手に入って絶好調の時期ということか。ただこの録音は音像が近すぎて、やや剛直に平板に聴こえてしまうのが残念。一瞬記憶が白紙になったかのような間があったりするが、演奏そのものはかなり好調で迫力満点、キレの良いオクターブがとてもダンディな風情すらある。「リストのソナタ」はSP時代にホロヴィッツが世界を驚かせた伝説の演奏が耳にある。そして老境になってからのスケールの大きなとてつもない名演があり、彼が最高のピアニストとして認知されてきた名刺代わりの曲と言えるだろう。SPのものは1932年の録音、スピード感もあり曲の把握力に優れたバランスのとれた演奏だが、若さゆえやや表情が薄く「ホロヴィッツの魅力」という点では最高のものではない。1976年の老境のものは曲の大きさを無限大にまで膨らますようなコントラスト、情熱、歌い回しのうまさと、誰にも到達出来ない円熟を極めた超名演。私はこの演奏が大好きなのではあるが、壮年期のホロヴィッツならばどう弾いただろう?という思いは残る。またデーターとは別に、これはおそらく編集によって成しえた演奏だと思われるので、良いにつけ悪いにつけ人間離れしている(笑)。また強靭な技巧が求められるところは、やはり壮年期のホロヴィッツで聴きたいとファンは思っていたものだ。今回は1949年、46歳!その願いがかなう!満足の出来る技術的にも音楽的にも壮絶な演奏で、世界遺産並みの価値があると私は思っている。ただし「展覧会」が音像が近い録音だったために、続けて聴くと「リスト」は音が遠くなる。一瞬イマイチ迫力に欠けるか?等と誤解されそうでイヤだなあ。リストはぜひ単品で聴いてもらいたいものだ。ここにはちゃんと晩年の演奏の良さも併せ持っていて「リストのソナタかくあるべし」と言わんばかりの、巨大な情熱の燃焼がすばらしい。第一主題の出現が、ここまで必然的にドラマティックに導き出される演奏など、一体誰に出来ようか。謎のカットの部分が惜しいが、暗譜忘れとかではなく単純に演奏時間の調整ではなかろうか?よく聴いてみたら、これは編集ではないように思った。というのはもう1枚のCDにも同じようなことがあるからだ。

a0041150_3141334.jpgこちらは1946年の「シューマンの幻想曲」がメインである。この第2楽章の中間部にやはりカットがある。幻想曲は彼の1965年のカムバック公演に選ばれた曲で、その演奏もまたどれだけ聴き込んだかわからないが、こちらは全部弾いているので、このカットもこのコンサートの時間の短縮を狙ったものなのか?46年盤は第1楽章冒頭が何と言ってもたまらない。ホロヴィッツそのもの、ホロヴィッツらしいニュアンスが見事な計算の上に描かれて完璧だ。カムバック公演ではここまで透徹とした表現にはなっていない。これだけを聴いても彼がいかにこの曲を深く極めていたかがわかる。この得意意識があったからこそ、カムバックで選曲したのかもしれない。ただ46年盤はやや部分部分で集中力を欠く。第1楽章の中間部、第2楽章前半、普段の彼からすればもっとうまくても良いのだ。3楽章の主題もややストレートすぎる感じもある。そうは言ってもホロヴィッツならではの多彩な表現は、その辺のピアニストとはワケが違う。こうなると「シューマンの幻想曲」はスタジオ録音で完全な形で遺して欲しい曲だった。

このCDはあとは小品が含まれる。まずファンの間で伝説になっていた「バラキレフのイスラメイ」。クリアな音質での復刻がうれしい。爆演で崩れる部分もありスリルは満点。こちらも大幅なカットもあり、終結部は大幅に変更されているホロヴィッツ編だ。ホロヴィッツが「イスラメイ」を弾いたのは1936年とこのコンサートしかないようだから、本人は好きでもなかったのだろう。このあとのコンサートでは「プロコフィエフのトッカータ」に変わっている。編曲部分も難しく変更したのではなく、弾きやすくしたという感じもある。

「ショパンの舟歌」はお得意のものだから、記録を見ても実際は何種類かの録音があるようだが、一般的なのは1957年のスタジオ録音、1980年のライヴとなる。57年のものはストレートな表現と太いたくましさが、この曲の持つロマンティックな許容量を超えているような側面もあったが、80年のものは技術的にはかなり怪しいものの、歌のうまさが秀逸であり再現部の前の幻想的なエピソードなどは至芸に近く、私は大好きな演奏だった。今回のは1947年のもの。より感情的な演奏と言える。良さも十分にあるが人によっては荒さを指摘する場合もあるだろう。個性的な演奏ではあるが、ルービンシュタインの若かりしころにも通じる「古いスタイル」も感じさせる。最近また復刻された1967年のライヴは心技一体のすばらしいものだったが、そのディスクについてはまたあとで。

リストの「波を渡る聖フランシス」は「あまりにも壮絶に弾きまくりすぎて、内容に乏しい」等という意見を聞く。途中から怒りにまかせたように叩きつけるようなハリケーンが巻き起こる。が、私は大好きな演奏だ。これこそ彼にしか出来ない演奏だから。もともと私はこの曲が好きではない(笑)。「夕月かまぼこ」のテーマみたいなつまらない主題が、何とも馬鹿馬鹿しく盛り上がっていく間に、派手でもない技巧のベタな部分があって・・・・。きっとホロヴィッツ先生もそんな風に思ったかに違いない(笑)。真面目な話、この曲にあるとすればドラマだろう。ドラマならばこの強烈なハリケーンは大冒険映画さながらである。破壊行為に近いサウンドも、誰も真似のできないレベルのものだ。


a0041150_13293785.jpgショパンの「舟歌」のところでホロヴィッツの1967年のライヴの復刻盤についてちょっと触れたが、その録音はホロヴィッツ没後20年を記念して発売された大全集に入っている。70枚組である。「ショパンのアンダンテ・スピアナート」等何回もリリースされたものは、オリジナル発売順だから同じ演奏がダブってカウントされる。その他「葬送ソナタ」「プロコフィエフのソナタ」等、まとめると70枚中約2枚分ぐらいはダブリだ。でもそんなことを言い出したら私なぞ、すでに70枚のうち60枚は持っているのであるから!そしてそれもLP時代にはレコードで持っていたものばかりで、これらをCDに全部買い換えての60枚なのだから!なのに、この全集を買っている・・・・(笑)。弁当箱よりもでかいサイズだった。

ここで注目は2種の未発表ライヴ。1951年3月のカーネギー・ホールでのライヴと、1967年11月ブルックリン・カレッジでのライヴ。ともに全盛期のものであるから聴き応えありで大満足。前者は推進力あるエネルギーがみなぎる感じなので充実感もさらに大きい。「プロコフィエフのソナタ」はホロヴィッツはウェットなアプローチで、私自身は物足りない感じがしていたが、こちらは同じホロヴィッツ・カラーではあるものの真意が伝わってきた。キレの良い「ポロネーズ」や「ハンガリア狂詩曲第6番」、「モシュコフスキー」等のスパークする演奏の谷間で、アンコールとして弾かれた「スカルラッティのソナタ」のうまさが尋常ではない。本当にすばらしい。67年のライヴは有名な「オン・テレビジョン・コンサート」の4ヶ月前。あの「ポロネーズの5番」が別なニュアンスで聴けるのもうれしいし、前述の通り「舟歌」はホロヴィッツの持つ良さが凝縮されている。「ベートーヴェンのソナタ28番」もこれで2種となった。ホロヴィッツはなぜこの曲を弾くのか、私はあまり理解できないのだが(笑)。むしろ「田園」ソナタとかがホロヴィッツの演奏で聴きたかった曲である。もし「田園」ならば第1楽章冒頭のサウンドも素敵だろうし、あの第4楽章にきっと魅惑的な表情がつけられたに違いない。さらに言えば晩年には「月光」ソナタをもう1度弾いて欲しかったと思う。そういえば次の未発表ライヴはベートーヴェンなんだそうな。こちらも楽しみだ。さて話は戻ってこのコンサートの「カルメン変奏曲」では一瞬ヒヤッとさせられた部分が!自作だから何とでもなるわけだが、これもまた興味深く聴いた。

現在、残念ながらこのBOXは早々に廃盤となった。売れ残りがない限り入手不可能だ。やはり買っておいて良かった(笑)。でもホロヴィッツ全集として4万円のものは出ている。こちらはモノラル録音とステレオ録音が適当なカテゴリーに編集されたものだ。いずれにしても、これを機会に多くの人が彼の凄さを理解してくれるとうれしい。


a0041150_3161076.jpg買って良かったといえば、ジョルジ・シフラの1964年の東京ライヴも凄まじい。数々のシフラのライヴ盤の中でも、これは確かに出来が良い。逆にこんなにすばらしい演奏が日本で伝説にならずにいたことは悲しむべきことだ。これはデル・モナコ来日の「声」の伝説に対峙する「究極のピアノ」と言えるものだ。当時の評論家やピアノ関係者がシフラの真の才能に気づかず、この凄まじさを曲芸レベルと思ってしまったことが情けない。聴き手が猿レベルだったのである。

レパートリーは彼の「いつもの」曲。どうしてもリストの爆演に期待してしまい、ショパンの方はスキップしてしまいそうだが、このライヴでは聴くべきところは多い。シフラは時として妙におとなしく、つまらなく演奏するときがあるが、本当は古典等できちんとした演奏も出来る力量とセンスを持っていたので、個性的なものばかりでなく普遍性あるものも伝えたかったと推察する。コンサートにおいてもそれらを対比させるために、オーソドックスな解釈の曲をあえて入れていたのではないか?まずこのCDに聴く「ショパンの幻想曲」は、優れた技術が冴えていて、そのかっこ良さのある風情が楽しい。それがまた爆演に繋がらないように、あちこちでブレーキを踏んでいるのもよくわかる。良くコントロールも出来たダイナミックな演奏で気持ちがこもっている。「ワルツの4番」はもう少し面白さを前面に出しつつも、節度をわきまえた個性的な魅力を出した名演。「スケルツォ第2番」と「バラード第4番」はやや荒めで、何となく「大曲」として捉えていないように聴こえてくる。楽器の調子の問題か、左手があちこち抜けてしまうのが、どこか真剣味のないような演奏に聴こえる要素となるが、面白いことに決して集中力を欠いてはいない。

後半のリストは文句を言う間もないほどに凄すぎるものが縦横無尽に繰り広げられ、これはどれも大いに楽しめるものだ。ただこれだけの演奏がされているのに、お客がわりと冷静なのが気になった。曲を追うごとにさらにさらにと演奏が激しくなっていくのは、シフラ自身が「え、まだ喜んでくれないの?」とやや怒りにも似たような焦りを、ステージ上で感じたからだろうか?最後はこれ以上のヒートアップはありえないほどの「ハンガリア狂詩曲第6番」に至るのだが、「スペイン狂詩曲」の時点から観客がもっと熱狂していたら、前半のショパンの演奏を考えても、もっと抑制のきいた演奏になっていたのかもしれない。それにしても凄いライヴだ。

上記のシフラのライヴは非常に音が良いのもうれしい。ライヴが次々と復刻されている割には、意外に良い録音状態にめぐり合わないのがミケランジェリのライヴである。前回、録音は良いがつまらないとあっさり書いてしまった東京公演のライヴも、彼のすばらしい他の演奏を知っているからそういうコメントになってしまったわけだが、録音状態が良い分の聴き応えは確かにある。ミケランジェリはほとんど限られたレパートリーで活動していたし、その解釈も全くゆるぎなくいつも同じであった。東京公演の冒頭のシューマンは明らかに集中力がないし、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」は彼の最高の演奏の精度から見るとかなり荒い・・・・と、こちらはその瞬間に応じた微妙な違いを楽しむわけだが、東京公演の「ショパンの葬送ソナタ」なぞは良い音質で聴けるために、非凡な解釈と表現力の説得力が多彩に聴こえてくる。これを標準にして他の録音状態の良くないものも、その味わいを推察できると言うわけだ。

a0041150_317299.jpga0041150_12511752.jpg今回入手したのは1967年6月28日のライヴでオールショパンプログラム。オールショパンと言ってもミケランジェリがいつも選ぶ曲ばかりで、それもいつもの解釈で弾き進んでいくので、その点では全く新鮮味はない。ステレオ録音と言うが、一昔前の擬似ステレオのような音でむしろ本来の彼のピアノの美しさを殺してしまっている。と書けば良いところなしのように思われるだろうが、実はこれはミケランジェリ・ファンならば必携のCDである。音質の件は上記の理由でカバーできる。このCDの魅力は、どうしてそのようになったのかわからないのだが、この日のミケランジェリのピアノに微笑みのようなものがあることだ。そして自らの表現や響きを楽しんでいるかのような一瞬があちこちに見られる。普段の彼ならば、良い演奏であればあるほど隙がない演奏になっていくので、こういうケースは極めて稀だ。評論家からは「冷たい」と言われてしまう彼の音楽的な表情は、(DVD等を見ればわかるが)本来は貴族趣味から来たものであるから、イメージを遊ばせるような演奏も実は可能なはずなのだが、絶対にそういうことはしないタイプである。

冒頭に弾かれる「幻想曲」で彼はありえないミスタッチを1つやる。完全無欠のピアニストなのでミスも少ない人だが、この「幻想曲」でのミスはコミカルにも聴こえてしまうほど滑稽なものだ。私の勝手な推察だが、予想外な出来事にここで緊張の糸が切れたのではないだろうか?このあとミケランジェリはその場の空気を楽しむかのような演奏に切り替わる。「遺作の前奏曲」もミケランジェリお得意の曲だが、この前半が陶酔的なロマンティックな情緒と切なさをかもし出す。この部分は今まで聴いたこの曲の演奏でベストのものだ。「葬送ソナタ」の第1楽章の第2主題、第2楽章の中間部も通常と同じ解釈での運びなのだが、どこか官能的な情感が感じられる。ここでミケランジェリが語りかけているのはむしろ自分の心に対してであるから、この情感はいわゆる「誘惑的」なものであったり「艶めかしい」ものではない。それは普段の彼の演奏や、ここでの他のレパートリーを聴けば明らかだ。別な言葉で言えば「陶酔的」、自己に向かった「エクスタシー」のようなものだと思う。

例えばこのブログを読まれる皆さんならよくご存知のように、「葬送ソナタ」終楽章のミケランジェリは1つの伝説である。ここでもそのフィナーレは(最善かはどうかわからないにしても)、いつも通りの凄まじい演奏がいつものように展開されていく。「いつも通りいつものように」というのはむしろ凡庸な演奏家がやることである。それは良く言えば「完成度が高い」とか「よく弾き込んである」とか誉めることは出来るが、ぶっちゃけ「毎回ただキチンと弾いているだけ」ということでもある。ミケランジェリも彼自身は「毎回キチンと弾いているだけ」なのかもしれないが(笑)、その毎回が伝説になるようなものなのだから、もうお話にならない。そんなミケランジェリだからこそ、その相対的な評価を誰もがイメージしてしまうが、例えばミケランジェリの「葬送ソナタ」は簡単に聴けるものだけでも6種類はある。その中でこのCDの演奏がどういう立場のものなのか、出来不出来ではない違いを味わえるという意味で価値がある。

このCDの長めの解説文では「マズルカ」の演奏について全く触れていない。きっと私のように思いを込めて、ミケランジェリを聴き込んでいないのだなあと、実に寂しい思いがした。このCDにはマズルカは作品68-4、33-1、30-3、59-3の4曲が収録されているが、実はこれこそが稀代の名演なのである。この4曲があるから、このCDを買う価値があると言っても良い。事実そうだ。68-4の時間が止まるほどの哀しみに満ちた表現、でも実際は調の移りと心の動きが丁寧に連動していて、微妙に色彩を変えながら弾いている。これは誰もかなわない。いつものミケランジェリでもこうはいっていない、むしろ時間の止まり具合の方ばかりが気になってしまうような演奏だったりしていた。41-4も同様の演奏。どの曲も1つ1つの音と気持ちと見事につながり、独特な空気を感じさせる。だからこそ30-3のスケールの大きさも空洞化しない。また59-3が最高だ。さらに流れが自然で自在。ホロヴィッツの名演にもまったくひけをとらない出来栄え。ここでのマズルカはミケランジェリの中でもベストに属するものだと思う。ただしショパンのマズルカとしての正統ではない。ミケランジェリとしての崇高な芸術だ。有名なボックス(右写真)を出したのは、1967年6月23日のライヴで68-4、41-4、33-1、30-3、59-3、33-4と6曲のマズルカが同じように「バラードの1番」の前に弾かれているから。こちらの演奏は響きのないデッドな録音で、ミケランジェリも時として流れの良くないゴキゴキした表情で弾いている。もちろん解釈は同じだし方向性は一緒で、丁寧さと自在さが微妙に欠ける違いだ。日にちが近いので、もしかすると28日も4曲ではなくて6曲弾かれていたのかもしれない。

ちなみに「バラードの1番」と「アンダンテ・スピアナート」に関しては、私はミケランジェリではもっと好きな演奏がある。マズルカの後でこの2曲はやや集中力を欠いた。それでもポロネーズの主題など、やはりいつもに比べて遊びの多い表情が楽しく、和やかな雰囲気が続いていた。
by masa-hilton | 2009-12-26 01:07 | 休日は怒涛の鑑賞

休日は怒涛の鑑賞 その15

昨日ちょっとCDに触れたら早速反響が(笑)。ありがとうございます。「バックハウスなんかを聴いちゃうと、恥ずかしくなってベートーヴェンソナタ全曲なんていれられない」と言ったことに対して、「そんな気弱なことでどうするの」というお叱りから「きっとすばらしいと思うからやってください」「個性的な全集を期待します」というエールまでいただいた(笑)。もちろんやる以上は成功させなければだし、とても良い演奏ができるのかもしれないが(笑)、「全集もの」というのは、そのレパートリーに若いころからじっくりと、命をかけて取り組んできた人がされるのが良いと思う。以下の全集物は良く知られたもので珍しくも何ともないが、そうした「重み」を持つという点で愛聴盤になっている。

a0041150_2562429.jpga0041150_323169.jpg最近イングリット・ヘヴラーのモーツァルト・ソナタ全集を丁寧に聴いた。ヘヴラーと言えば特に日本ではモーツァルトの専門家扱いだが、ウィーン趣味に溢れたシューベルトも好きだし、ショパンのワルツ集等も踊りの表情に富んでいて趣味が良く、とても魅力的なCDだ。とは言え、モーツァルトのソナタは彼女が生涯をかけて弾いてきたレパートリー。そのスタイルも典雅で細かなニュアンスの美しさを、アンティークな空気で極めたような独自のものである。今回買ったのは新録音の方。幾分ゴツゴツしたような演奏もあって、私個人としては旧録音の流麗なものの方が好きな曲もあるのだが、ヘヴラー自身の強い意思で弾き方を変えたとのこと。長年モーツァルトを弾き続けてきて、本来はこういう演奏であるべきだと思い直しての再録音だそうだ。第7番のソナタ等、確かに説得力が増した曲もある。全集としての聴き応えがあり、音に対する意味合いの深さに心打たれるのである。この5枚組4200円は安い。

a0041150_3324536.jpga0041150_3351981.jpgショパンの名手であったステファン・アスケナーゼのショパンの全集(ではないけれどBOX)もずっと欲しかったものだ。うまいといえば「子守唄」の伴奏音形1つとっても味があって、さすが巨匠の趣があるのだが、正直つまらない演奏が多く全部聴きとおすのは苦痛だった。録音が良さをとらえていない。この時代はこういうことがしばしばある。それでもである、生涯ショパンを弾き続けたピアニストの演奏は「とりあえずショパンを録音してみました」的な演奏が多い昨今、何らかの重さをハッキリ感じさせる。協奏曲の第2番等は大変すばらしい、ゆとりと哀愁を感じさせる「秋」の表現!感動した。また先ごろ出たライヴCDのモーツァルトの協奏曲(シューリヒト指揮)は、この巨匠の真価を示す名演だ。ショパンもこの時代の録音が十全であったら、本当の良さが遺せただろうに大変残念だ。7枚組8000円強。

a0041150_3281944.jpga0041150_332011.jpg人によっては評価も低いのだが、アダム・ハラシェヴィッチのショパン全集は私のお気に入りの1つだ。何が好きかといえば音色である。エチュード等最近の名手たちに比べればスピード感もないし、全ての曲に平凡な印象を感じる方も多いだろうが、独特の清涼感と言うべきか、実際に演奏してなかなか出せない風味が底に流れている。先日ガブリリュク君に会ったときも評論家の真嶋さんと二人で、ハラシェヴィッチをワーストピアニストの筆頭に上げていたが、彼はまったく練習しないことで有名で来日公演はひどい出来だったそうだ(笑)。それはそれとして、このCDは悪くない。得がたいノスタルジックな香りがする全集だ。10枚組で4000円ほど。

ラザール・ベルマンはセンセーショナルな扱いをされたが、その後は過小評価されていたのではないかと思う。彼がやはり若いころから弾き続けていたリストの「巡礼の年」も全集になっている。骨太な技術、大音響ともいえるビッグサウンドを持ちながら、ロマンティックではあるが内向的で地味な色彩で描かれたリスト。この統一感が全曲を聴き終わったあとに重みを与える。この曲集のベストの1つであるとともにベルマンの真価を認識できる3枚組。3000円。

a0041150_3382536.jpga0041150_3402168.jpgアンドラーシュ・シフのバッハの作品集も1つの偉業と言えるだろうし、場当たり的なものではない。多彩な才能と深い意図に溢れる演奏。フランス組曲や平均律の2巻にはやや荒削りな部分が見受けられたりしていたが、インヴェンションとシンフォニアの演奏は秀逸。平均律の第1巻、個性的なパルティータの第6番も独特な美しさがあって好きだ。録音年代は1983年から10年かけたもの。当時はかなり強烈な解釈に聴こえたところも、今では「挑戦の範疇」にすぎないようにも思えてしまう。鬼才のことだから、おそらくは再録音されることだろう。しかし12枚組3500円とは!

エミール・ギレリスのベートーヴェンのソナタ集は彼の死によって全曲盤にはならなかった。至芸の領域、ピアニストとしてお手本にしたいような理想的な表現やピアノのニュアンスが随所に!特にそのニュアンスに富んだ音で弾かれた第30番、第31番が思いのほか優れた演奏なので、続く第32番が録音されずに終わったことは、我々だけではなくご本人もさぞや心残りであったろう。この全曲集が完成されていたら、現代的なベートーヴェン全集の最も優れた演奏として普遍の金字塔になっただろう。ただしここでの演奏が本来のベートーヴェン像かと言えばそれもまた違う。あくまでもピアニストとしてみた場合の1つの姿。この辺りが難しいところだ。ベートーヴェンは奥深い。いろいろな演奏を受け入れてくれるが、本当に良いものはもっとオーソドックスなものかもしれない。しかしこれぞ正統!と呼べるようなもの、それ自体をあまり見つけることが出来ないのも現実。もっと現代的といえば、ポリーニのベートーヴェン後期ソナタとかも良い演奏だと思う。これはこれでまた1つの姿。が、格が違うと思う。こちらは9枚組9000円だった。

a0041150_452356.jpga0041150_454010.jpga0041150_42224100.jpgこうして演奏家が心血を注いだ全集ものが大変安く売られている。ピアニスト・ラフマニノフの全集が10枚組3000円程度、シュナーベルのベートーヴェンソナタが10枚組2000円程度と安すぎる。きわめつけはカラヤンの交響曲全集38枚組が9000円(笑)。気軽に買うと聴くのも大変だ。
by masa-hilton | 2009-08-01 04:31 | 休日は怒涛の鑑賞

休日は怒涛の鑑賞 その14

小室氏が逮捕されたのも驚いたが「彼は音楽は独学で楽譜を読むことも難しい」という報道にはもっと驚いた。例えば美空ひばりもジャズの大御所エラ・フィッツジェラルドも楽譜は読めなかったというように言われている。そこは天才、有り余る才能でカバーされているわけだし、楽譜が絶対に読めなければいけないとは思わない。その自由さこそが音楽というものだ。でも読めた方が良いには決まっている。小室氏の曲は同じパターン音型の繰り返し、または音階的な動きが多く、メロディラインに色合いというものがない。それが悪いことではないし個性とも言えるが、私はあまり好きではない。楽譜が読めることによって新たな音の動きを得られたかもしれないし、読めることによってイメージが失われたかはわからないが、いずれにしても表現の多彩さを欠く特徴を持っている。それはまた時代が求めたものかもしれないのだが。

ピアノを子供のときから専門的にやっている人と、独学だったり作曲家からいきなり転向したりした人では、技術云々ではなく「音色」に決定的な違いがある。特にその「色の数」「多彩さ」は明らかに異なる。つい最近レコード店で物色中に、それこそ無味乾燥した単彩の音の羅列だけの、私たちからみると騒音にしか聴こえないブギウギのようなピアノが延々と流れていた。私は体調まで悪くなりそうで参ったが、これを個性と呼び好む人がいて良いのが音楽なので、これに対しての批判はない。でもその演奏者がどこの国のだれであれ、受けてきた音楽教育がマトモでないことだけは確かだ。何回も言うがそれは非難されるべきことではないのだが、楽曲にしても演奏にしても色合いというものは、その音楽家の履歴書みたいなものであることは間違いない。

a0041150_23492367.jpg前にも書いたが、クラシックのピアニストは大抵ジャズ・ピアニストの「芯がなくそれでいて粗暴な音色」には抵抗がある。どんなにジャズ好きでもその部分は味わえないのである。だからクラシック的なタッチで弾いたカプースチンを聴いたりしているのだが、これは職業病であり悲劇でもある。そういう音では私たちには音楽のもつ内容まで届かない。だからチック・コリアのモーツァルトを楽しめる専門家はいない。そんな職業病を超えて、良く聴こえてくるものといえば、聴いたことのない新鮮なアイデア、それが絶妙なフィーリングで弾かれたときだろう。例えばあのビル・エヴァンスのピアノも、「音」としては我々からすれば良くはない。しかしそれを忘れさせる演奏がある。クラシック好きで、今私が書いたような理由でジャズが楽しめなかった人は、ぜひこのビル・エヴァンスの「TRIO 64」を聴いていただきたい。ここで彼が弾く「サンタが街にやってきた」は、なんと新鮮な才気に溢れ素敵なことか!これに心が動かなかったら今度は音楽を聴く意味がない。有名曲をアレンジする上でのバイブルのようなテイクだ。私の個人的な好みでは繊細で楽しい「スリーピン・ビー」も好きだ。こういう世界は、今度はクラシック演奏家からの憧れとなる。

a0041150_2347101.jpgもう1つアレンジ物でおすすめはスウィングル・シンガーズの「ビートルズ・トリビュート・アルバム」。これが素晴らしい。「バースディ」など目から鱗のスーパープレイだ。スウィングル・シンガーズはクラシックやポピュラーでも何でも「ダバダバコーラス」で聴かせたあのグループといえば、お分かりになるだろう。けっこう大昔のアーティストだ。この「ビートルズ・アルバム」はその元祖スウィングル・シンガーズではなく、元祖のリーダーだったスウィングルが監修はしているものの、若い人たちによるアカペラのヴォーカル。タイトル曲の「Ticket To Ride」などにみるスローナンバーでのファンタジックなスタイルも良いが、アップテンポに於けるアイデアいっぱいの歌いっぷりは、非常に楽しくクォリティもとても高い。何よりも、どことなくイギリス的な民族的な「色」を感じさせる辺りが素晴らしい。大のお気に入りだ。

以前、私のクリスマスコンサートが流れて潰れてしまったことがあって、それは主催者がこのスウィングル・シンガーズのほうに決めてしまったのであった。許す!(笑)

a0041150_023168.jpgナタリー・コールが、亡き父親ナット・キング・コールとの仮想デュエットで大ヒットした素敵なアルバム「Unforgettable」。その第2弾とも言える「Still Unforgettable」がリリースされたが、これを聴いてショックを受けた。本人は結婚離婚を繰り返し体調も優れないようだから仕方がないかもしれないが、あれほど奔放で多彩で、闊達な歌を見事な完成度で歌っていた人が、年齢のせいなのか、音域に留意しながら単調にダラダラと歌っていく様は聴きたくなかったものだ。今やアメリカのショウ・ビジネスの女王とも言える人だから、悪く言う人もいないだろうが、私は大ファンなだけに悲しく心が痛む。古き良きスタンダードをその空気を失わずに歌える数少ない人なのに残念だ。プロデュースが本人ということで、好みも偏ったのかもしれない。この辺りは自分の仕事にも参考になる。本人の好みに偏ると、強引にCDRを配られたような圧迫感を感じ、エンターテインメントのプロ精神が伺いづらい。やはりCDは聴く耳を持ったプロデューサーやアシスタントを配置すべきものだ。声は衰えるものだが、その衰えた声でも表現でやりようがあると思う。このようなビック・アーティストでも、色があせればその岐路に立たされてしまうのだ。

色彩の問題だけではなく「音」の持つ力は実は大きい。本来「音」は表現に密接に結びついていなければならない。ジャズであるから遠慮して内容とは関係ないとも書いたが、クラシックの場合は実は深刻だ。最近ベートーヴェンの第7交響曲を演奏しながらウィンナーをかじるCMがある。どうしたらいい?この状況を!この曲がここまで有名になったのは「のだめ」のせいだし、このように軽んじられるようになったのも「のだめ」のせいであろう。正しく言えば「のだめ」のときに流れた演奏の印象のせいである。若者達の自由な気持ちの象徴として演奏されたから、わかりやすく活発で単純そのもののイメージがあり、だからこそ多くの人にも受け入れられた。しかしあれは本来の姿ではない。日本でのベートーヴェンの第7ブームは、本来の使用目的がわからず「ふんどし」をマフラとして使って流行しているのと同じだ。恐ろしいものでこうした傾向は本来の演奏会にも浸透してくる。何事も本来の使用目的で流行してこその「文化」であるのに。

a0041150_072588.jpgそんな状況の中で、今回久々に復刻されたアーベントロートのブラームスの交響曲の第1番を聴くと、私たちがこういう音を、こういう色彩を最近聴いていなかったことを思い知らされる。私自身は「第2」は情感溢れクライマックスに歓喜の嵐が巻き起こるようなフルトヴェングラーとウィーンフィル、「第3」は的確な解釈と温かな歌いまわしのベームとウィーンフィル辺りが好きだが、「第1」にはこのアーベントロートのものを挙げる。残念なことに録音は悪いが、そこから聴こえてくる「音」はブラームスの心の音色とも呼べるものだと思う。アーベントロートもテンポの変化が激しい指揮者だが、フルトヴェングラーのようなドラマ性とかではなく、それは純粋なロマンティックな情緒によるものだ。万が一そのテンポの動きに不自然さがあった場合には、恣意的にもとられてしまいがちなのだが、実は前世紀の伝統、香り、そして音を継承していると考えたい。失われがちだが、失われてはならないものである。冒頭から聴こえてくる弦楽器のレガートな「歌」は、クラシック音楽の真髄だ!と叫びたくなる感動を与えてくれる。

a0041150_0225547.jpga0041150_0354490.jpgミケランジェリの1973年の東京公演のライヴが出ていて、かなり割高だったけど買ってみる。ミケランジェリといえばその魅力は「音」である。色彩を多く持つわけではないのだが、大きな説得力と存在感を感じさせる氷の矢のような、光を感じさせるような風情がある。それが貴族的な情感に揺らいだり、時には冷徹に完璧なディミヌエンドを演出したり、神がかりな雰囲気を見事に構築していて真似が出来ない。このCDはステレオで、それも日本のホールの空気で聴けるとあって、そのミケランジェリの音も現実的な実在感がある。ただしそれを楽しむだけのCDだ。もちろんそれだけでも価値はあると思うし、単純な旋律に施す最高のレガート等、芸も細かくそこら辺のピアニストと表現も段違いではあるが、演奏そのものはあまりノッていない。最高の状態のミケランジェリではない。まあ悲しいが、日本公演とはこんなところなんだろう(笑)。

同じく巨匠ルービンシュタインのライヴも出た。この1963年のライヴはなかなか素晴らしく感動した。戦争以来ドイツを許さず演奏しなかった彼が、ドイツ国境近いオランダで行ったという気概もあるのだろう、演奏はノリノリで輝きに満ちて説得力の強いものだ。そしてこの演奏のキーワードもまた「音」。こちらは普段のルービンシュタインのCDからは聴こえてこない「ナマ」のピアノの音がくっきりと聴こえてくる。ルービンシュタインといえば芳醇な柔らかな音。それだけではない人間の音、そしてこれこそがピアノの音といえるようなものが聴こえる。実にしっかりとしていて芯があって、心が伝わる「音」だ。私としては「謝肉祭」がナマで聴けるのが何よりも嬉しい。ルービンシュタインはこのとき75歳ぐらい。あり得ないほど逞しい。

a0041150_0445194.jpga0041150_0502359.jpg先ごろオリジナル・ジャケット・コレクションというシリーズのボックスが出たが、これでハイフェッツを入手した。家にあったCDと随分ダブっていたが、音質的にはこちらの方が聴きやすかったので満足。10枚組、お馴染みの名演を一気に聴く。ハイフェッツの「音」には人格がある。汚れた靴とかは絶対に履かないような(笑)おしゃれ心に満ちた、雄弁でそして切れ味の良い音。そしてこれもまた久しく聴かれることのなくなった種類の「音」である。本当に素晴らしい、改めて魅了された。

そして全く対照的なジャック・ティボーの死の年のライヴ、ブラームスの協奏曲に実は大感動した。これは聴きようによっては技術はボロボロだし、解釈的にも何が良いかわからないという人も多いだろう。しかしこの「粋」を究めたヴァイオリニストが、年齢の厚みを説得力にして、自らの往年の演奏以上に私たちの心に語りかけてくるものは何と言ったら良いのだろう。スタイルはどんなに古くても、それを超えた確信みたいなもの、老巨人の歩みが1つ1つこちらの心から「色」を引き出してくれる。しかし私がこのようなことを言えるのは多分ヴァイオリンを知らないからだ。ヴァイオリニストならば、これは聴けない「音」なのかもしれないよね(笑)。ちなみに晩年のティボーの演奏でラロの「スペイン交響曲」がライヴでいくつか出ているが、これが好きだ。特にクライスラーが最前列で聴いていたという、ストコフスキー指揮のカーネギーホールのライヴは、学生の頃のエアチェックで持っているだけなので、何とかして買いたいと思っている。
by masa-hilton | 2008-11-05 01:06 | 休日は怒涛の鑑賞

休日は怒涛の鑑賞 その13

a0041150_11514321.jpgクーベリックが指揮したバイエルン響とのライヴDVDがすばらしい。オーケストラのこれだけの演奏って最近見たことがない。フルトヴェングラー時代の魂のこもった演奏もそれは凄い。大好きだ。しかしここに来てやはりどことなく古さが否めなくなってきている。ベームやカラヤンに対する印象も彼らが生きていたころとは変わりつつある。最近のレベルの高い演奏、美しい音色が生かされた演奏に耳が慣れてきたせいでもあろう。そして全て統合して上で、この時期のクーベリックの演奏というのは驚くほど豊かな内容を持っていると常々感じていた。実はこのDVDの買った目的は、ボーナストラックにクーベリックやサバリッシュ、ケンペ等の超一流指揮者たちの共演によるバッハの4台のピアノ協奏曲のリハーサル風景が入っていて面白そうだったから(笑)。そしてこの映像は確かに面白くはあったが、人間関係というか、お互いに尊敬して仲良しなんだろうが、微妙な空気があって楽しめない。リハーサルをもともと、こうして陽の目を当ててはいけないのだと思う。これでどんなに本番がうまくいって楽しそうでも、ああサバリッシュは相変わらず嫌な感じで弾いてるんだなとか(笑)見えてしまう。それはそれで興味深いものはあるけれど。

a0041150_1333977.jpgさてこのDVD本編は髪の毛はやや薄いが30代の若いバレンボイムがソリストで登場するブラームスの2番。これも良い演奏だ。ブラームスの2番と言えば忘れ難いのが、エドヴィン・フィッシャーとフルトヴェングラーのもの。最近の優れたリマスターリングでの処理で、この歴史的な録音も随分聴きやすい音になってきたというが、緊迫した戦時下における燃焼度の高い演奏の1つ。バレンボイムはこのフィッシャーの弟子ということもあって、フィッシャーのスタイルを踏襲しての演奏、テンポ設定にも似た部分がある。またこの巨大な曲は重厚な演奏、情熱的な演奏、深々とした演奏は聴けても、輝かしさをもつ演奏はあまり聴けないが、バレンボイムは叙情的であり華やかな要素もあって、音ののびやかさも失わずに、オーケストラのほぼ理想的な演奏解釈ともあいまってすばらしい。最近のバレンボイムより艶やかで良さが前面に現れているようだ。若い頃のバレンボイムには端正なイメージしかなかったが、その殆んどがデュ・プレとの共演での印象で、さすがに天才との組合わせでは色あせて見えたということなのだろう。

「良い演奏」と言ったが、この言葉もまた随分と平たい表現だ。もともと良し悪しなんて存在しないのだ思う。例えば「良い演奏」でも、先日のNHKで見たゲルバーのベートーヴェン!何とも煮え切らないものを聴かされイライラしてしまい、往年の巨匠の「味はあるが何気ない表現」に到達することの難しさを考え、重苦しい気持ちにさせられた。ゲルバー自身が「第2楽章が聴かせどころで深い音楽だ」と語っていたが、あのギレリスとセルのライヴに於ける第2楽章等と比べれば桁違いに虚しい時間だ・・・・等と言ったら傲慢にも聞こえよう。しかし「自分は人のことを言える身分ではない」と卑屈になっていては、聴く楽しみすらも失ってしまう。これらの感想は「見識」ではないし「好み」の範疇を出ていない。勉強となれば話は別だが、鑑賞を楽しむ自分の「好み」で論議をする必要もなく、それぞれが自分にとっての名演奏を心に抱いていればそれでいい。それが「聴く」ことの本質的部分だと思う。絶世の美女でも好みじゃないとか(笑)、好きな演奏が実は「へたくそなもの」であっても、誰にも迷惑はかからないということだ。ここが音楽の楽しいところであり、難しく厳しいところでもある。

a0041150_121828.jpga0041150_1781628.jpg「好み」を言えば最初の1音から何かがある人、つまり「うまい演奏家」だ。「大きな存在感をもつ」演奏とでも言おうか。それも病的なハイテンションではなく、適度な遊び心もほしい。最近聴いたものでは若くして亡くなったカリスマ的なピアニスト、ウィリアム・カペルの新譜「ラスト・レコーディング」にあったラフマニノフの3番が、そんな感興を呼び覚ます演奏だった。この曲は我々の世代のピアニストにおいては特別な意味を持つ憧れの名曲。ホロヴィッツ=ライナーの凄絶な演奏に魅せられてのことだ。今はコンクールの定番、さらに言えばちょっとした音大生なら誰でもスラスラとホロヴィッツよりもうまく弾ける?(笑)、そんな普通の曲になった。ゆえに多くのピアニストの名演が続々と量産されているのだが、そうしたすばらしい演奏に出会えば出会うほど、この曲への興味が失せるという不思議な感覚が私にはある。若い人からは馬鹿にされているが、我々は擦り切れるほど聴いたアシュケナージの演奏、これも今や一つの古典に過ぎない。でもその演奏からは「いや、まだまだだ。もっと良い解釈があるはずだけど・・・・」みたいなものが聴こえてくる。その1世代前の人たち、例えばギレリスのようなピアニストは「ま、とりあえずレパートリーにして弾いておくか?」みたいな(笑)、やはりどこか解釈に確信が薄いイメージがある。この曲を現在のようにしたのはアルゲリッチのライヴだろう。これは本当にすばらしい演奏で、この曲の推薦盤として私も真っ先に挙げる名演だ。しかしその演奏は「この曲はこんな風に弾いても良いし、ほらほら、こんな感じにだって出来ちゃうわよ~」(笑)とも語りかけてくる。その余裕ある感じ?がすばらしくはあるのだが、この曲を憧れから現世に引きずり落としたような印象を受けた。

a0041150_171794.jpgカペルのラフマニノフが始まると「ああ、これだ。この曲だ」というものを感じる。こういう風に始まってくれないと、とても聴く気にはならない。何が違うのか?台本通りのお芝居が始まるのではない、何が起こるのかわからない冒険への旅立ち。そういった風情だろう。とても満足した。

ところで左写真のように、カペルのラフマニノフの3番には既にもう1つ音源が存在している。だから今回が2つ目になるわけだが、演奏そのものは今回のほうがより良いと思う。ただし原盤が破損していて、この全く違う別のCDの同じ部分から、音を拾って編集されている。

そのカペルは早世したことでリパッティとも比べられるが、この2人は全く違う意識の下に演奏している。ただし共通して言えることは、この2人が長生きをしていたら(現存していればリパッティ91才、カペル86才・・・太田鮨のお父さんと同じだ)、明らかに世界のピアノ界は変わっていたといえることだ。早世された天才ピアニストに例えばディノ・チアーニ(現存ならば67才)等もいるが、チアーニならば、もう1人ハイドシェックやチッコリーニが増えるような印象かもしれないが、リパッティとカペルには流れの本流を変えてしまう、巨大な影響力の可能性をその演奏に秘めていた。想像をしてみる・・・・現在老カペルが生きていたとしたら・・・・今のアムランとかランランとか、ハフ、エマールやキーシン、彼らのような演奏家タイプが世にでてくるのが15年は遅れただろう。また活躍していたとしても、現在の彼らと同じような演奏をしていたかどうかは疑問だ。また思いもよらぬスタイルの演奏家が活躍することになったかもしれない。ピアノ界はもしかするともっと面白いものになっていたかもしれない。

カペルの場合は飛行機事故なので、自分が死ぬなんてことは全く考えていない。この「ラスト・レコーディング」も元気いっぱいバリバリの演奏。この輝きとパワーが、様々な大きな可能性を感じさせてくれるのだ。超人的な技巧もさることながら、まるでプラチナや金塊の光を反射するかのような独特な音色が魅力的だ。「ラスト・レコーディング」とはオーストラリア・ツアーの折の演奏で、このツアーを終えて帰国するときに飛行機事故に遭遇した。31歳である。「展覧会の絵」やショパンの「スケルツォ」の爆演、これもまた初めて聴く「舟歌」、ホロヴィッツの演奏の影響を受けた大人しく遅めの「プロコフィエフの第7ソナタ」等々、録音が不備で音は悪いがどれも聴き応えがある。

a0041150_1211276.jpgしかしピアノにも増して、オーケストラ演奏の「表現力の差」は、もっとあからさまである。かつてのブロンフマンと来日したウィーン・フィルが、ソリストよりも先回りし待ち伏せしドカンとやるような凄い演奏を聴かせていたが、それもライヴでは見たことがない光景だった。「ノリノリだから」できることなんだと思うが、オーケストラの場合は「やる気」「本気」の差で決まるのだろうか?確かにただの「やる気」ではない。100人の「やる気」だから、その威力は大きい(笑)。話が戻って、冒頭のクーベリックとバイエルン響のDVDでは、その「やる気」200%の上にさらに200%の何かを感じさせる。それは「共感」である。彼らのこの時期の「新世界」も大名演だが、マーラーの交響曲等々、まさに名演奏のオン・パレード。特に左写真のマーラー1番がすばらしい。今回のDVDにはドヴォルザークの交響曲第7番もはいっていて、結局これがメインのディッシュだった。本当に感動したし驚愕した。有名なリズムに特徴がある第3楽章それだけでも、それが始まっただけで音楽の素晴らしさに打ちのめされる。クーベリックも凄いが、その音楽を具現できるオーケストラがうまいし凄い。こんなオーケストラはなかなか見ることは出来ない。

a0041150_4575074.jpgすばらしい指揮者というのはもちろん本人が強いメッセージの力を持っていることが、第1条件の1つになると思うが、その指揮者が振ると「このオーケストラは何てうまいのだろう」と思わせてくれるのも、大きな実力だし魅力の1つだ。そんなタイプの代表として巨匠ロリン・マゼールを挙げてみたいがいかがだろう?マゼールは音楽オタクや評論家からはかなり評判が悪い。その知名度に比して、日本では過小評価されているように思うが、彼のタクトの下では、オーケストラはいつも輝いている。

私が大好きな演奏の1つにウィーン・フィルとのラヴェル集がある。どこか定まらない感じで、簡単に踊れそうにない「ラ・ヴァルス」も個性的だが、「ボレロ」で妙なリタルダンドをかけるのが傑作。洒落ているというよりは悪魔の微笑みに近いが、こういう悪戯にアンサンブルの乱れもなく、美しさきわまるサウンドで対応しているオーケストラのうまさが驚きだ。こんなリタルダンド、練習に練習を重ねたものだとも考えにくい。目くじらを立てて論議するようなものではないさ・・・・という感じに聴こえるのも、アンチを逆なでする。

a0041150_4573044.jpga0041150_5143719.jpgオペラ指揮者としてのマゼールもまた、オーケストラのうまさを充分に引き出す。アンナ・モッフォを迎えた「カルメン」は、芝居がかった解釈で実に楽しく面白く、そして歌手達の個性を活かした大名演。歌手もコレルリやカプッチルリをはじめ、チョイ役に至るまでオールスターで固めた。ハッタリの効いた解釈はあちこち顕著だけれど、特に2幕のはじめの「ジプシーの歌」は超スローなテンポで始まり最後は誰よりも速くという(笑)、普通は下品な解釈と言われるものなんだけれど、これが良い。すばらしいオーケストラに乗って歌うアンナ・モッフォが「悪い女」カルメンを匂わせて絶品。数ある「カルメン」のベストにしても良いと思う。

a0041150_524398.jpg「トゥーランドット」も同じくやりまくりの演奏。ここでもオーケストラの良さを十全に引き出し、中国の舞台を仮想空間のようにハリウッド化して聴かせてくれる。多様に面白く聴かせていることでは秀逸。1つだけ、ライヴだから仕方がないが、カレーラスがもう少しがんばってくれていれば。これも個性的ながら良い録音だ。なおこれはDVDも発売されたので、そちらのほうがもっとお奨めかもしれない。

さらに忘れられないのが「トスカ」。これは何と言っても、歌曲の分野で「神」であるあのフィッシャー=ディースカウが、悪役スカルピアを歌う配役が凄い。ド迫力のスカルピアでないので、隙がなく頭が良く、残酷なイメージが強調され、まさに筋金入りの悪人という感じだ。この配役にもマゼールの悪戯心が反映されたのだろうか?これもまたオーケストラが良い。テンポ設定は「カルメン」「トゥーランドット」から見れば、解釈はスタンダードに進むが、それでも充分に存在感を感じさせる緻密な音楽作りには脱帽だ。

a0041150_10174724.jpg最大の特色は音色感。そのパレットの豊かさとくっきりとした音像。そのためには個々のパートをよく鳴らせている。しかもうるさく咆哮させず、単彩に陥ることなく。テンポ設定の面白さはメリハリ?のようなもので、オーケストラに遊び心を伝えているのだろう。当然「シェエラザード」のような曲の料理はお手のもので、雄弁な演奏ぶりがより鮮明。色彩感が欲しい曲では、マゼールのシェフとしての手腕が最大に発揮される。その「職人芸」を「シェフ」と言いたくなるのは、キラリ光るダイヤの指輪が客席から見えるようにして振ったりする(笑)お洒落な印象からか?これも遊び心の1つだ。それも反感のもとだが本来は逆だろう。雑誌で評論家が座談会を開いている写真を見ると、よれた服にさえないネクタイ、髪の手入れもままならぬような人たち・・・・こんな人たちが愛やロマンについて語り合う姿こそ笑止なのではないか?人は見かけじゃないとしてもだ(笑)。またマゼールは政治力を持ち、そうした活動に大きな野心と興味を持っている。その筋の抗争で、挫折を味わっていた時代もある。カラヤンの後任は結局アバドに取られてしまった。

a0041150_11985.jpga0041150_11191650.jpgマゼールは協奏曲の共演もうまい。大好きなレオニード・コーガンとの共演なので、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を買ってみる。とてもロマンティックで泣ける・・・・という評判のCDだったがそこはそうではなかった(笑)。大体泣ける映画といわれて泣けたことも少ない私。人が泣かない映画で号泣したりもするからあてにはならない(笑)。これは凛と気品のある良い演奏で、オケも充実していた。おまけに1000円以下!とくれば、買って損はないだろう。ただ予想した期待値から考えると、燃焼度は普通だったということだ。「泣ける」に限定、もしくは「甘美な」という選択なら、ジョコンダ・デ・ヴィトーのヴァイオリンにつきるのでは?ここまでの豊かな感情的な表現は例を見ない。ただヴィトー盤はライヴ、おまけにフルトヴェングラーの重いオーケストラが伴奏しているから小回りが出来ない(笑)。たくさんのアンサンブルの粗が感興をそいでしまう・・・・そういう意味ではちょっと残念なのだが、やはり聴くべき演奏だと思う。

a0041150_10581364.jpgメンデルスゾーンでは泣かせてほしい!甘美であってほしい!これはもちろん賛成だ。しかし人それぞれ感情も違うし、そういう意味では「文句なし」の演奏をすることは大変難しいのではないだろうか?この曲の最高の演奏として私が尊敬してやまないのは、ハイフェッツがグィド・カンテルリと共演したライヴ録音。これほど鋭角的で、速いテンポでガンガン弾かれたメンデルスゾーンにはお目にかかったことがない。それでいて旋律はちゃんと歌い抜かれているからさすがだ。甘美な曲を甘美に弾かない(笑)。しかし不足感もなく、想像を超えるような大パフォーマンスが展開される。ヴィルトゥオーゾとはこれ、ここに極まれりという感じ。弾きまくる快感も充分!確かにセカセカしていて味わえないという人もいるだろうし、浸れる演奏であるはずもないが、ここまで凄ければ文句はない。演奏力を楽しみ、巨匠の存在感を感じるのも1つの聴き方だ。聴衆の大爆発の拍手が全てを物語る、これをライヴで聴けた人たちは幸せ者だ。ちなみにカンテルリの、このヴァイオリンにオケをつけた棒さばきも凄い。カンテルリはトスカニーニに後継者と目された最高実力者の1人、この人も飛行機事故で36歳にて亡くなる。カペルに並ぶ大きな損失だった。
by masa-hilton | 2008-06-23 03:59 | 休日は怒涛の鑑賞

休日は怒涛の鑑賞 脱線編

(・・・・・このブログの1週間後、作詞家が亡くなられた。やはり強い人であっても大きなストレスがあったとも考えられる。そして歌手の立場はますます悪くなるだろう。やはり喧嘩は何とか我慢してもすべきものではないと思った。ご冥福をお祈りしたい。・・・・・)


ちょっと関係ないが「おふくろさん」騒動がまだおさまってないらしい。歌手の分があまりに悪くて(笑)お気の毒だと思う。「ヴェルレーヌでもあるまいし(笑)、歴史的な文学的価値があるわけでもなし、森進一という歌手によって命を得たものなのに、何を怒っているの?」とこっそり思っている(笑)。もともと曲は演奏家のもの、音楽は聴き手のもの。昔、矢代秋雄先生は「作曲家はそれが実際の音になったとき、もう曲は自分のものではなくなるものだ」とおっしゃっていた。演奏家が曲に演出を与えるのはあたり前で、それがステキだと思う。また音楽は語り継がれていくようなものだから、だんだん変えられていくというのは、むしろ名誉なことだ。人間関係のもつれという話だが、人前でスパスパ煙草を吸いながら話す老人には、もともと気遣いというものが感じられないというのが、大方の人の意見だ。

さて「作曲家の意図を生かして」・・・というのはクラシック演奏家にとっては最も大事なこと。これが基礎だし、これをはずしたら演奏する意味がなくなってしまう。だが作曲家も人間である以上絶対ではないという意見もある。名ピアニストのホルヘ・ボレが、「作曲家がその曲1曲にかけるエネルギーに比べて、われわれ演奏家がその1曲に取り組む時間とエネルギーのほうが多いはずだ」と指摘している。つまり作曲者より演奏家がその曲の真の内容をとらえることだってありうると言っているのだ。だからと言うことではないが、私はピアノならシューマンを聴くことがとても好きだ。なんだかんだ言っても表現の許容範囲の広い曲が多いし、内容も豊か。ピアニストたちの個性を、より楽しめる作品が多いからだ。

a0041150_3363289.jpga0041150_3371934.jpgシューマンの演奏で心惹かれるものを列記すると、まずはウラディミール・ホロヴィッツが1969年に録音した「クライスレリアーナ」。晩年にもずいぶん弾いていた得意曲だが、このソニー盤への録音は文句なくすばらしい。情念と研ぎ澄まされた感覚が織り成す凄まじい音楽だ。ダイナミックスの幅もデモーニッシュな味わいも独特だが、誰も超えられないものだ。人の心を射抜く強烈なメッセージは、ピアニストならば誰もが憧れるに違いない。また何回も書いているが「謝肉祭」ではサンソン・フランソワのファンタジックな録音がすばらしいと思う。まさに楽想の趣くままに心が揺れる名演、だからこその激しさ、情熱的な歌いまわしも感動的で、どこまでもロマンティックだ。もちろんフランソワならではの弾き癖が随所に見られ、ミスもあればいい加減な場所もかなりあるので、嫌な人は嫌だろう。ただ押し寄せてくるような才能の嵐を感じることが出来なければ、病院行きをおすすめする。ちなみにフランソワの「交響的練習曲」のほうはかなり個性的で、とても我慢強いフランソワ・ファンでなければついていけないだろう(笑)。

a0041150_3385374.jpga0041150_341351.jpg意外に思われてしまうが、ジョルジ・シフラのシューマンも好きだ。「交響的練習曲」はやりすぎで爆笑の部分もあるのだが、「謝肉祭」ではシフラならではの加速度系の指回りも健在な演奏で、それでいて曲の雰囲気を壊していないし、何といっても華やかな空気がよく、楽しめる演奏となっている。だが断然にすばらしいのは「幻想小曲集」だ。これはもっともっと大きく評価されるべきすばらしい演奏だ。見事なまでに詩情豊かな名演で、アイデアも豊富だし、彼の指さばきがまるで何かにとり憑かれたような情感を描く。疾風のような「夜に」も忘れられない。全てがロマンティックな感情と結びついているので、シューマンの作品の本来の「香り」を失わない。「なぜに」「夢のもつれ」が別の日・別の場所での録音なので、音質がガラリと変わってしまうのが推薦盤になりえぬ理由だろう。残念。ロマンティックと言えば、やはりルービンシュタインの「謝肉祭」が素敵だ。意外に世間の評価は低いが、こちらは華やかながら恋人達のデートの雰囲気があって、あくまでも2人の中の話のように進む「謝肉祭」は私は大好き。このような夢膨らむ演奏は簡単には出来ないものだ。

a0041150_3521137.jpgB=ミケランジェリの「謝肉祭」と「ウィーンの謝肉祭の道化」もまた忘れられない大名演だ。彼自身お気に入りの曲らしく、生涯にわたって飽くことなく弾き続けたので、わが家にも4~5種の録音がある。普通巨匠になればなるほど味が出てきて、ある意味いい加減にふやけて来るものだが、逆に歳をとっていくに従って、音楽も味わいもやや硬い感じになっていくのが面白い。ここはやはり57年録音のグラモフォン盤での演奏をベストとしたい。これこそピアノを弾くものの憧れだ。もちろんミケランジェリならではのクールで見通しの良い構成で描かれ、相変わらず神業のような流れの美しさに心酔する。加えて細部のニュアンスの美しさ、音の歌わせ方が絶妙で、それらはもはや「味」の領域ではなく、持ち前の気品やエレガントさという、本人と同化したものに感じさせるからなおさら凄い。何と高度なそして素敵な演奏なのだろう。

忘れてはいけないスヴャトスラフ・リヒテルもシューマンを得意としたが、ロシア人ピアニストのシューマンには全員の弾き方にちょっとした共通項がある。これはまたそのうち考えることにして、今回ははずそう。

a0041150_3555355.jpgシューマンは最もドイツ的な色合いの濃い作曲家かも知れないが、フランス人もよく好んで弾くし、シューマンを得意としている人は少なくない。代表的にまずアルフレッド・コルトーだが、今回は同じくシューマンの名演奏家に挙げられるイヴ・ナットについて。彼のシューマンは剛直に過ぎて、本来のシューマンが持つ魂の羽ばたきや感情の揺れがあまり感じられない。スタンダードな演奏とはいえないと思う中で、「ファンタジー」の第1楽章の冒頭が何と感動的なことか。激しさを秘めながら悲しい。唇をかみ締めるような深い悲しみの中で、心の音楽がストレートな表現の中から聴こえてくる。それはもともと天翔るようなその音楽と最も合わない語り口だし、中間部はやや一本調子になりがちできついが、ここに流れている音楽的な意思は特別で、この感動は他の類を見ない。ナットは2006年に没後50年ということもあって、彼の代表作としても有名なベートーヴェンのソナタ全曲を含めた全録音が15枚組でリリースされている、ぜひ聴いていただきたいものだ。

a0041150_503057.jpg同じフランスでロベール・カサドゥシュのシューマンはすばらしい。彼のシューマン・アルバムは私の大好きなCDの1つだ。カサドゥシュといえばモーツァルトやドビュッシーやラヴェルが極めつけのように言われてしまうが、このシューマンの、特にさりげない曲に聴く絶妙なニュアンスは、これもまたピアニストの憧れだ。日本人はこういうのが好きなのではないのだろうか?「蝶々」の前奏が終わり主題が始まったときの何ともいえない明るさと、ほとんどイン・テンポなのだがちょっとした間合いを用いるそのうまさ、それが作為的ではなく「味」として示されている。そんな例をあげればキリがないのだが「森の情景」の「寂しい花」とか、なかなか出来ない技が示されている。基本的には薄味のイン・テンポでサラサラさりげなくすすむ中で、巨匠ならではの真似の出来ない隠し味の効いた演奏で、カサドゥシュは他のレパートリーではこういう風情をあまり見せない。「謝肉祭」「交響的練習曲」も立派な演奏で、普通単音で弾くパッセージをオクターヴで弾いたりと(笑)、元来ロマンティックなルービンシュタインと仲が悪く、スタイリッシュであまりルバートとかもしない人なのに、決してスタンダードでもなかったりするのが面白い。またこのアルバムには名バリトンのピエール・ベルナックとの共演の「詩人の恋」が入っている。フランス歌曲の達人のベルナックの「詩人の恋」はジェラール・ムーアとの共演盤が手に入るのだが、実際はムーアとの盤はお蔵入りしていたものだから、2年後のカサドゥシュ盤のほうが気に入っていたということになるのだろう。

a0041150_10341150.jpg1つ面白いCDを紹介したい。シューマンの没後100年を記念しての演奏会なのだろう、ゲザ・アンダがモーツァルテウムで1956年にやったシューマンのコンサートをまるまる収録したもの。「交響的練習曲」「クライスレリアーナ」「謝肉祭」がとてもライヴな内容で(笑)、全体的にエキサイトしまくり、指が止まらなくなったかのようにテンポも速くなり、暗譜が飛んだりの事故も起きてしまうのだ。しかしながらこのテンションの高さは尋常ではない。これが得がたくとてもすばらしい。こういう面白くスリリングな演奏は本当に聴けなくなった。心が通った、血が通った、そして本人も楽しみ興奮しているのだろう。あちこち荒っぽいし、ヴィルトゥオーゾ的な解釈というか「弾きっぷりの良さ」を見せたりして、シューマンの音楽というには異質な感じすらする。しかしそれを超えて、もしかしたら「クライスレリアーナ」は、事故さえなければ(笑)最高の演奏の1つと思えてしまうくらいだ。ユニークな解釈を示す所もあって、それも結構な説得力を持って弾かれている。マニアだったら楽しめる1枚だろう。またこれらはアンダにとっても、お得意なレパートリーであるらしく、スタジオ録音(2種)を含めて何種類か遺されている。

a0041150_11282890.jpga0041150_11291228.jpgそこにいくと現代のすばらしいピアニストたち、エマールやピリス、ハフたちの演奏は、聴く前からシューマン的な内容のイメージへの期待を与えるが、実際に聴いてみるとつまらない。もちろん私の好みからの話だから良し悪しの話ではないし、演奏力からみれば往年の巨匠達に比べて比較にならないくらい高く、さらに真面目に取り組み、スタンダードに良い内容のものを弾こうとする意思も充分に感じる。逆に面白ければいいのかと、個性的なアファナシエフの演奏ではさらにしっくり来ない。それならアムランのシューマンがずっと良いと思う。それでも抒情的な部分部分が「味わい」でなく「クセ」のように聴こえてしまうのは私自身の問題なのであろうか。

a0041150_11342853.jpga0041150_11285223.jpga0041150_1130541.jpg多少の偏見はあると思う。キーシンのシューマンも演奏力に感心し驚愕しただけで、普段からあまり聴こうとは思わない。そういえばアシュケナージやポリーニのシューマンにしてもそうだ。彼らを聴くならネイガウスを聴くだろう。音楽そのものをいじっているわけではないのに、ピリスの演奏は何かをやればやろうとするほど、感動とは別の方向に音楽が流れてしまう感じがした。たまたま同じピリスのCDを愛聴している人がいて「どこが悪いんですか?とてもいいですよ」という話になった。その人によく聞くと、同じ曲を日本人のある方のCDで持っているということで、日本人でもかなり実力派のその方の演奏とピリスのを比べると、軽車両とベンツの差があると言うのだ。そういう聴き方ならば・・・・と、上記のミケランジェリの演奏を聴いていただいたら絶句していた。ベンツとスペースシャトルの差がわかっていただけたようだ。しかし、この差は本当になんだろう?

明確なことはクレッシェンドとディミヌエンドのスパンの長さの違い。特にディミヌエンドは難しい。どこから始めるのか?それがどういう結果をもたらすか?を充分考えて演奏することが肝心!・・・・そんな理屈は誰にでも言えるが実際はほとんどがうまく行かない。それらは音楽の呼吸にも関係している。長い呼吸はフレージングも長く支配できるために、そこに緊張感を持たせることも可能だし、自由に開放させることもできる。ミケランジェリの凄さはそのスパンがマクロに近いことだ。気まぐれのようでも、フランソワもまた本能的にメロディの扱いのスパンは長い。ゆえに意表をつくかのような洒落た歌い回しができるわけで、あれは単なるクセやフィーリングではなく、巨匠達による演奏の伝統を充分ふまえた上に成り立っている至芸だ。加えてホロヴィッツの休符の表現は魔術に近い。音がないときのわずかな間がそれまでの音楽の流れ以上の強い意味を持っているときすらある。

目には見えないし科学的にも証明されないが(笑)音楽には内容もあるし、ピアノの演奏には色々な音色や色彩も存在するし、生命の存在すら実感できる。これが理解できないとピアノは弾けないし聴けないし、評価もことごとく誤るだろう。表現の技法は「イメージ」という言葉だったり「味」という言葉だったりもするが、もっと実体のあるものにできる人ほど優れている。さらにもう1つ、誰にでもそれらをわかりやすく伝えられるようなストーリー性(安っぽい言葉だが)みたいなものが最終的には必要で、これが「呼吸」ということでもある。

音楽における「精神性」を重要なもののように語るのは、むしろ楽なことかもしれない。批評家などの演奏しない人たちがイの1番に感じる「幻」の部分であり、またそういう人々を我々が煙にまくのに大変便利な言葉だ。私だってよく使わせてもらっている(笑)。が、本来「精神性」は滲み出てくるようなもので、仮に前面に押し出そうとすれば実際の音に対しての丁寧さが失われて、肝心な多くのことが表現できなくなり、逆にスカスカになる。どんな魂も音楽である以上、「音」とその表現の積み重ねで成り立っているのだから。カリスマ的な精神性を持つ演奏や感動的な演奏といわれるものほど、概してわかりやすい演奏だということも思い出す。例えばエマールのようなピアニストが上手すぎて、味気なくなり散漫な感じになりがちなことを、「精神性」が薄いのだとは言えない。それは単にうまいことがCDでは伝わらないタイプかもしれないし、「上手すぎる」「高い演奏能力を持つ」ことすら美徳にはならないのが音楽の難しさだという、もっと実体のある現実的な問題なのである。だからこそ巨匠達の芸術は測り知れなく、大きな尊敬に値するのだ。

a0041150_3501692.jpga0041150_10481798.jpgまったくやる気のないような何気ない語り口のようでも、さすがにヴィルヘルム・バックハウスはうまい。このうまさはまた独特で真似が出来ないというか、ピアニストから言わせればルール違反!何でうまいんだろう(笑)?1つは構成が良いのだろう。実に大きなとらえ方だ。「森の情景」は最後に叙情的な「別れ」というロマンティックな曲があるのだが、その前の「狩」の曲が、内容の薄い馬鹿馬鹿しい感じに置かれると違和感だらけで終わる。といって「狩」に余計な表現はつけられない。そこがバックハウスの手にかかれば、民俗音楽的な題材でくくられた曲集という感じで、「狩の曲」も不可欠な要素として組み込まれ、続く「別れ」が主人公の満足感を伴う風情となり温かく終わっていく。

もともとシューマンの持つ文学性とか言われると、われわれ東洋人には重く複雑な感じに受け止められがちだが、根底には民話・民謡の類が持つ色合いから発する、シンプルでいながら根深い土着の味わいに起因するところが多い。となると我々日本人にはますます縁遠く苦手だけれども(笑)、ヨーロッパ人であっても現代的な演奏家にはそぐわないことが多いようだ。だからこそこのバックハウスの良さがあり、アルトゥール・シュナーベルのような人には「森の情景」や「ウィーンの謝肉祭」等を録音していて欲しかった。エドヴィン・フィッシャーの「クライスレリアーナ」等も聴けるものなら聴きたい。ワルター・ギーゼキングの「ダヴィッド同盟舞曲集」は、まさにそんなすばらしい演奏の1つで心から味わえるもの。昔私は、この演奏を聴いて初めて、この曲を良いと思ったのだった。今にしてみれば、この曲を初期の作品と思って侮っていたのである。ロマンティックな情感に満ちた成熟した曲集だし、演奏し甲斐のある良い曲でもある。このギーゼキングの演奏には、私達が盗むべきすばらしいロマン的な演奏技法がいっぱい詰まっている。ただしギーゼキングのほかのシューマンは、かなりひどいので要注意(笑)。気ままに、または時間がないのに受けてしまった仕事という感じで、彼にとっては不名誉な記録であろう。

a0041150_226649.jpgシューマンが生きていたら、これだけ多彩に演奏されている状況をなんと言うのだろうか?作品を演奏してもらえることはありがたいことなわけで、感謝の気持ちでいっぱい?そんなこともなさそうだが(笑)。演奏のやり方は1つだけではない。たまたま私のブログでは私の意見が書いてあるけれど、これだって人それぞれだ。私はドワイヤンとかペルルミュテールとかが苦手だけれど、ある人にとっては最高の演奏家だというのもあたり前のこと。どちらが正しいとか誤っているという問題ではない。そこが音楽の楽しいところだ。そういえばホロヴィッツのハンブルグでのラストコンサートが何とグラモフォンのレギュラー盤で出ちゃうね(笑)。この彼の生涯最後のリサイタルについては以前書いた。内容を調べてみると、シューベルトの即興曲とアンコールのリストが落とされている。その分以前は途中からしか聴けなかったモーツァルトが全曲入っているのだろう。どっち道ならベルリンコンサートをリリースして欲しかったな~とかブツブツ言いながら、ファンはまた買ってしまうものだ。

それにつけても最初の話の森=川内のように、作曲者が自分が君臨しているような気分になって上から物を言うのは、やはり良くないと思う。森=川内の問題の悲しい所は、誰も聴き手のことを考えていないことだ。私たちはやはり森進一の「おふくろさん」が聴きたいのだから、それが優先されて然るべきだろう。私も歳をとっていく中で、人間関係で他人に上から物を言うようにならないように、老害と言われないように気をつけたいものだ。それには自分の都合で発言しないことだろう。ある有名な評論家が雑誌で、トーク付き(司会付き)の有名なオペラコンサートを批判していた。しかしその先生が解説や対談を、演奏会中で長々とやっているのを何回も見たことがある。自分が司会をしたかったのに断られたとかではないの?それならこれもまた迷惑な「老害」だ。今後は司会を頼まれてもご自分からお断りになるのだろうか?どうなさるのか?・・・・と頑なな意見はやがて自分自身を縛るようになって、楽しく暮らせなくなっていく。

毎日が楽しいようにだけ考えていれば、きっとちゃんと生きていける!・・・のでは?(笑)
by masa-hilton | 2008-03-31 03:16 | 休日は怒涛の鑑賞

休日は怒涛の鑑賞 その12

不世出のソプラノの1人、マリア・カラスはまだまだ話題に尽きないようだ。先だっても「永遠のマリア・カラス」という、我々から見ると何ともしがたいような、はっきり言って残酷な映画というか、後味の悪い作品によって、さらに彼女の名前は大きくなっている。またお正月には「最後の愛」とかいう映画が封切られる。逆に言えばそれほどにカラスは大きな存在なのだろうが。

a0041150_1994473.jpga0041150_1910745.jpgカラスの声は独特な響きがあり、どこか無理があるもののような気もする。表現は意外にもアカデミックでもあり、自己中心的に爆発するような大きさや強引さはない。美人だが毛深い人、足の太い人、におう人・・・等々の悪い噂もいっぱいあるし(笑)、女神でありながらも絶対的なものではないような、不思議な存在感を湛えている。ゆえにこうして後世の人たちに無神経にいじられてしまうのかもしれないが、大事なポイントは彼女の歌には古さがないということ。例えば私の愛聴盤だった2つのヴェルディ「椿姫」、1つはステルラ、1つはロス・アンヘレスという大ソプラノを擁したオペラの巨匠トゥリオ・セラフィンの名盤だが、このスタンダードともいえる魂の演奏も、現在のソプラノたちの声からするといささか古びて聴こえてくる。逆に若い人たちはこの演奏の表現力を学び、知る必要がある。だが演奏としての輝きは(現代においては)ややくすむ。一方のカラスの古いライヴ録音からは、そうした感じがなぜかしない。今に生きているのである。

以前書いたが、カラスのEMIに残したレギュラー録音が、70枚に近いセットで格安で出たばかりだ。同じようにピアノではルービンシュタインのレギュラー録音等も繰り返しリリースされたりしているが、リハーサルの録音も含めてレギュラー盤に押し上げられて、すべて網羅された上で、どことなくヒステリックに売られてしまう例は、カラス以外にはあまりないだろう。それだけ売れるということか?それならば1枚単価200円というのはおかしい。

a0041150_18521171.jpga0041150_1852404.jpg・・・・・と納得がいかないような、どこか悲しいような気分になりながらも、LPをCDに買いなおすのには正に絶好の機会ではある。左の10枚組は『ルチア旧』『ノルマ旧』『椿姫』『トスカ旧』『カヴァレリア』全曲で1500円だ。ルチアとノルマはステレオ録音しか持っていなかったし、椿姫とトスカは相当傷んだLPでしかない。どれ1つ別売で買っても1500円以上はするものだ。

右のはカラスのライヴコンサートの全集。欲しかったのはライヴ・イン・パリ1963&1976だが、単品で2300円ぐらい。こちらも10枚全集になれば4000円。買うしかないだろう。ちなみにパリのライヴでは、ムゼッタのワルツを歌っていたので欲しかった。他の内容はライヴ・イン・ローマ1952、ライヴ・イン・サン・レモ1954、ライヴ・イン・ミラノ1956、ライヴ・イン・アテネ1957、ライヴ・イン・ロンドン1958&1959、ライヴ・イン・ハンブルク1959、ライヴ・イン・シュトゥットガルト1959、ライヴ・イン・アムステルダム1959、ライヴ・イン・ロンドン1961&1962で、あとはリハーサル風景を収録したイン・リハーサル・ダラス1957と対談が1枚。59年のライヴはほとんど同じ曲だし解釈はほとんど変わってないから、当日の声の調子や微妙なテンポの揺れを楽しむわけ?で、これではちょっとした病的なファンのための時間かもしれない(笑)。でも1日中聴いていても飽きないのが、カラスの演奏だ。

a0041150_21292230.jpga0041150_21332638.jpgチェロのジャクリーヌ・デュプレも17枚組の全集が発売されている。こちらも約7000円だ。正に1音聴いただけでも、その天才を認知させるほどの強烈なエネルギーを持っていた彼女のことは、私は大好きだけれどもこの全集は買えない。なのでこのCDは紹介のみ(笑)。彼女がああして不可思議な病気になってしまったのは、きっと普段から精神と感覚が異常なまでにハイだったからに違いないと思っているので、デュプレの音楽に埋没するのは息苦しいのだ。無邪気というのか大胆というのか、音楽に対していつもピュアで没頭して取り組む姿は、右側のDVDでさらに明白だ。こちらは購入して一気に見てしまったが、もし彼女を初めて見る人は、まずミニスカートで荒馬にまたがるごとくチェロを弾くその姿にも、衝撃を受けるに違いない。師であるプリースとの2重奏やピアノの演奏等、音楽で遊ぶ姿にも鬼気迫るものがあって辛いが、必見の映像であると思う。今なら限定盤で日本語の字幕がついている。彼女もまた、実際異常であったのではあろうが、その性癖等が死後色々取りざたされているのが悲しい。これだけの才能に何を注釈つける必要があるのだろうか。本来ならば彼女の夫君であったバレンボイムももっと責められて然るべきなのだろうが、彼自身が音楽がもたらすイメージとは違った俗な環境に身を置いているので、だれも何も言うことはない。演奏家とはそんなものだ(笑)。

a0041150_1948786.jpga0041150_1943440.jpgそして先日NHKで深夜、今は老人となったそのバレンボイムがベートーヴェンを教え(生徒にはランラン等がいる)、ソナタ全曲をコンサートで弾いていく映像を見て大変感動した。多くの学ぶべきことがある。しかしもう1つ感じたことは「昔のバックハウスは本当にうまかったなあ」ということだ。若き日のバレンボイムが背筋をピンと立てて、ベートーヴェンを凛々しく端正に弾いていた映像を見たときも、ただならぬ才能の大きさと演奏家としてのオーラに圧倒されたが、年齢を重ねたバレンボイムはさらに味わいが深い。もちろん私達からすれば天上人であるし、往年のピアニストたちと比べても、技術や解釈の的確さははるかに優れている。でもやはりバックハウスだ。理由はよくわからないが(笑)、老ルービンシュタインのたった2小節にツィメルマンが勝てないのと一緒だろう。このバックハウスのレギュラー盤のほとんどが1000円という価格で12月12日にリリースされるのも嬉しい。好きなのはモノラル録音でのワルトシュタインソナタの名演。シューベルト=リストの絶妙な演奏が入った、有名なカーネギーホールでのライヴコンサートもおすすめだ。私もブラームスの小品集とハイドンのアルバムを買いなおすつもりでいる。
by masa-hilton | 2007-11-30 00:12 | 休日は怒涛の鑑賞

休日は怒涛の鑑賞 その11

皆さんもご経験おありかと思うが、好みの物事について、とにかく人の意見を鵜呑みにして良かった試しはない(笑)。評論家だろうが専門家だろうがアマチュアだろうが、あまり熱心に勧められるとついつい買ってしまうことも多いのでは(笑)?一応私は専門家だからそこまで推薦させるものは何か?という興味と勉強心もあるので、あまり損した気分にはならないけど、これがただの趣味ならそうも言ってられない。といって、好きな演奏家だから好きなタイプの演奏をいつもしてくれるとは限らないから、自分の勘だけで買っても当たり外れの山となる。同じといえば同じだが、やはり自分で選んで買いたいものだ。だからここも適当に読み流していただけるほうがありがたい。

何でそんなことを言うかというと、今回はグリーンドア出版という復刻盤を多く出しているレーベルから色々買ったのだが不発!フェイバリット・シリーズといって、コレクターが自分の愛聴していた秘蔵SPレコードを復刻させたものだ。「秘蔵盤は各個人のものでそれが名盤とは限らない。別の人にとっては興味のないものかもしれないが、自分にとっては・・・・」みたいなことがちゃんと書いてあって(笑)、まさにおっしゃる通り。

a0041150_21263788.jpga0041150_21265499.jpg往年のフランスのヴァイオリニスト、ドゥビィ・エルリの「ラロのスペイン交響曲」はいたって平凡。もちろん悪くはないが完璧なテクニックとか情熱的とか個性的とかいった謳い文句は全てくすんで見える。オーケストラも冴えない。かつてティボーが自由奔放に弾いたライヴがお気に入りだったが、なかなか粋な演奏に出会えない。

デニス・ソリアーノと大ピアニストのマグダ・タリアファロとの共演の「フォーレのソナタ1番」は大きく期待したが、ソリアーノのヴァイオリンの音色感が曲に不つりあい。タリアファロはいつもの彼女らしい大胆で大らかな弾きっぷりを見せるが、フォーレでは今ひとつ物足りない。がっくり。ただこのCDではアーンのロマンスという曲がとても良かった。このCDのブックレットもひどいもので演奏家のフルネームも書いてないのだが、ここでピアノ伴奏をしているE・ロワソーは素晴らしくうまい。音楽を揺らぎでとらえて、縦の線ではむしろずらすように弾いているのだが、吸い付くような呼吸で見事な名人芸的なアンサンブル。こういうピアノが来ると俄然ヴァイオリンも光って聴こえる。

a0041150_2224380.jpgピアノのCDではラヴェルが「わが完全無欠の演奏家」と評した愛弟子のピアニスト、アンリエット・フォールのラヴェル集。フォーレのような名前にもちょっと魅力を感じ買ってしまったが、全くの2級品で驚いた。ラヴェルが描いた音像が現在の我々とはかけ離れているのだろうか?ラヴェルは多くの演奏家に対して絶賛の言葉を贈っているから、あてにはならない。この人の演奏は表面に硬くコーティングしたゴムみたいなものが貼ってあって、曲の内面を聴き手に示すことができない風情がまずい。少なくても私の好みではない。つまり叙情的なものより音の扱いの面白さを強調したような演奏。しゃくりあげたり独特の間合いを持った音色感は、もしかしたらライヴでは色彩的なのかもしれない。長くラヴェルの下で勉強した割には、楽譜と違う音で処理している場所も多いし。録音データーも何もないCDなので、何歳のときの録音かもわからないし、種々の判断は難しい。いずれにしてもイヴォンヌ・ルフェビュールの名人芸やアンティークなマドレーヌ・ドゥ・ヴァルマレットとは比べられないだろう。

a0041150_223437.jpga0041150_2232134.jpg次にエリー・ロバート・シュミッツの弾くドビュッシー。これは理屈っぽいイメージの演奏で辛気くさい感じだ。この人はドビュッシーと深い親交があり、ゆえに作曲者が求めた本来の形を知っているとされた。教育者として有名で本も多数、また現代音楽の支援者としても活躍した。さすがにディエメの弟子なので弾けることは弾けるが、洒落た味わいや活きたフレージングに事欠く。ドビュッシー自身が遺した自動ピアノの演奏に似ているとあったが、これは確かに似ていたが(笑)。解釈を勉強する資料にはなるのだろうか。

そしてピアノオタクの間ではちょっとした話題だった夭折のピアニスト、ローザ・タマルキーナの録音。17歳でショパンコンクール第2位、将来を期待されたが26歳で癌が発症、30歳で亡くなった人だ。演奏は若き日のルービンシュタインがキレが良くなったような感じだ。健康的で技巧的にも優れ安定しているが、音楽的な成熟度は感じられない。強い個性も芽吹いていない状態で、とにかく自分をぶつけるようにして弾いているものばかり。この若さでは当たり前である。素晴らしい才能が病魔に冒されなければ、女流のギレリスのようなピアニストになったかもしれない。残念というよりも残酷なものを感じて、もうあまり聴く気がしない。

a0041150_22343692.jpgさてレーベルは変わって、思い切り楽しめて深く勉強になったのは、ハープシコードの大家のワンダ・ランドフスカがピアノで弾いたモーツァルトのソナタ集。かつてランドフスカのピアノで弾くモーツァルトは、ケンプにも通じるロマン的な趣向の強いものというイメージだったが、この晩年のランドフスカが自宅で弾いたものを聴くと、それはロマンではなくモーツァルト時代の人が蘇り、生きた人間の言葉で語るドラマのようなものだとわかる。ここまでテンポが異端で全てが流動的のようであり、時にはオリジナルな楽句を挿入したりしながら、即興のように当たり前に弾かれていくと、作曲者のいた貴族のサロンでその曲がゆったりと奏でられているかのような錯覚に陥る。ここでの演奏は我々が言うモーツァルトらしさは微塵もないし、特別にうまいというわけでもないのだが、芸術の創造される過程を思い起こさせるに足る、重い説得力を持っていてとても有意義に聴ける。しかし当然好き嫌いは激しくあるだろう。

a0041150_22464147.jpgそしてこれも話題になったウラド・ペルルミュテールのモーツァルトのソナタ全集。素晴らしい演奏なのにお蔵になっていて、なかなか手に入れるのが難しいとされていたが、ご存知のように私はこのピアニストが苦手。うまいのはわかるし味も横溢。以前のショパンのワルツだって、曲の出だしはどの曲もアシュケナージより数段にうまい。だがフレージングが小さく、そしてそこで流れも止まっていくので音楽が繋がっていかない。曲の終わりでは振り出しに戻ってしまうタイプだ。このモーツァルトもまた、どの曲も重く同じような色彩で弾かれるのは、音楽が常に流れていかないので喜びの詩になりえないためだ。美しい緩徐楽章がつらい。また難しそうなトリルの前では、一瞬ためらうような間が空くのが、どうしても気になってしまうのだ。うまそうな風情が充分あるのだが、私には相性がやはり悪いようだ(笑)。

a0041150_4593369.jpga0041150_512372.jpg以前予告したが、アルフレッド・コルトーが弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲の第1番を聴く。これは大変素晴らしい演奏だった。味わいの極致。雅趣綿々としたこれぞ音楽という風味は、よそではなかなか味わえない。室内楽でお馴染みのようにコルトーは結構ベートーヴェンは上手だ。晩年のライヴの演奏だからミスタッチはいつものようでも、ショパンやシューマンを弾くよりもずっと巨匠の面持ちがある。スタンダードでエレガントなこれは大満足な演奏だったし、こういうものは真似しようにも真似の出来ない至芸である。カップリングでラヴェルのトリオをまたペルルミュテールが弾いている(笑)。こちらは、あきらかに余裕がない演奏。共演者の技量もアップアップして、今にもおぼれそうな室内楽になっていて気の毒ですらある。4楽章の主題も数えて弾いているような感じだ。トリルの前で間が空くのと同じ芸風で楽しめない。さらにペルルミュテールが弾く「リストの2つの伝説」、こちらは思っていたものよりはずっと頑張っていた。

そして期待が非常に大きかったアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリの協奏曲集。彼のピアノはガンガンに冴えていた。シューマンは激安ボックスに入っていたライヴと同じ録音。カミソリのような鋭い音色感と叙情性の対比が美しく、若さのある絶好調の名演だ。リストはオーケストラも悪く音も悪く、彼の最善とはいえないものだった。私にはそれはどうでもよいことで(笑)、待ちに待ったのはラフマニノフの第4番の協奏曲のライヴ!!これはあの伝説のスタジオ録音があるのでどうしても聴きたいものだったのだ。音が古いライヴなので軍配はスタジオ録音だが、ミケランジェリは驚くほどの完璧さと冴えたリズム感で見事に弾ききっている。素晴らしいの一語だ。ただ感覚は現代音楽のノリだ。明らかに現代音楽の新作でも弾くようなスタンスで弾き進んでいくのがわかるし、それがとても面白く、曲にも緊張感を与えている。スタジオ録音ではこの演奏の数年後ということもあって、もっとラフマニノフ的なロマン性や叙情性も伺える。この時期かなり何回も本番で弾き込んだのだろう。これはまた新しいライヴが登場してくるかもしれない、楽しみだ。系統は違うが私にはミケランジェリはあこがれの名手である。

a0041150_503917.jpgさて以前幻の大女流ピアニスト、ヨウラ・ギュラーについて、その魅力がよくわからないと書いたら、色々な人と興味深い話をすることが出来た。結論を言うと魅力がわからない組が結構いるということだ。私はこういう風に思う。彼女の演奏の特質は巨大とも言うべきスケールの大きさと、独特の間合いだと思う。その間合いがまさに剣豪の間合いのような深遠な感じがするので、好きな人は好きなのだろうし、そこに他者とは違う凄みのようなものがあると。ゆえに録音では、そんなギュラーの真価は十二分にとらえられないし、舞台ではその美貌とあいまって、よりカリスマ的な魅力が炸裂するのだろうと想像する。ただ録音で聴く限り音楽は流れていっていない。以前聴いたCDのショパンのエチュードも右手の哀感ある流れを、左手の弾き癖のようなアクセントと間が台無しにしているし、バラードの4番も巨大な表現だが、音楽的には流れていかず、やや形骸化されていて、特に冒頭はイマジネーションをかき立たせる甘美さが誰でも必須条件で、それがピアニストにとって難しいことなのに、無視されてしまってはとても曲の中にはいっていく気すら起きないわけだ。だから逆に言うと、ギュラーの録音を聴いてその魅力に憑かれることができる人は凄いと思う。純な魂でしかとらえられない演奏・・・私のような不純物だとどうしても他のことが気になるし、それを超えて強く鷲掴みされるようなパワーも感じられない。今回のCDのショパンの協奏曲もまさにそう。ライブで傷も多いがそんなことはどうでもいい。やはりスケールの大きな歌い回しで存在感は感じるが、音楽が流れず魅惑的なものが足りなく聴こえてくる。感情的にも聴こえるが燃焼していない感じもあり、いささかとりとめない印象だ。小品の舟歌もまた最初の伴奏の2回の繰り返しでドラマはもう終わってしまった印象がある。不器用といえば不器用な演奏。同じこのレーベルのシリーズでマルセル・メイエの演奏も聴けるが、メイエのものはイマジネーションや音色の選び方でずっと大人の演奏で、普通はこういう演奏を素晴らしいというのではないだろうか。この後ギュラーのベートーヴェンのソナタを購入することにしているので、またもう1度分析してみたい。いずれにしても私は、もっとわかりやすく、その天才や才能が直接的に響いてくる人のほうが好きだ。

a0041150_05186.jpgそういう意味ではこの演奏こそ天才のものだと言い切れる。ずっと欲しかった1枚をやっと手に入れた。マリラ・ジョナスである。ある時サンプル音源で彼女の弾くショパンのマズルカを聴いて雷に打たれたように感動した。こんな素晴らしい演奏、ホロヴィッツも一歩譲るような色彩感のある演奏が、知らない名前のピアニストによってなされている。と、名前を見ているうちに気がついた!昔読んだルービンシュタインの伝記で、ルービンシュタインが南米に行ったときに、もうピアノに触れようともしない落ち込んだ人を励まし復帰させるエピソードがあって、多分その人ではないか?と。当たりだった。正しくはこうである。ポーランド人であった彼女は、ナチへの協力を迫られ拒否したために投獄される。何とか釈放された後クラコフからベルリンまで歩いて脱出。たまたまその悲惨な様子に同情したブラジル大使館に救われ、ブラジルに逃れたとのこと。投獄中には拷問やレイプ等もあったのだろうし、歩いてベルリンまでたどり着く間にどれほどのことがあったか、想像を絶する。あまりのことにピアノも弾けなくなっていたが、ルービンシュタインの励ましを受けてカムバック、1946年にはニューヨークデビューも果たすが、戦時下で体を悪くしていて1959年に48歳で亡くなっている。まさに「戦場のピアニスト」の女性版だがこちらは天才でレベルが違う。この録音は1946年前後のもの。もちろん全部が全部良いというわけではないが、とにかく個性的だ。ショパンのマズルカはどれも素晴らしい。そして技巧を凝らして作為的だと悪く言う人もいるかもしれないが、それほどに色彩感があり、目を見張るほどにうまさが誰にでもわかる。そして私の心を射抜いた理由がもう1つ、この人はわが師ステファンスカと同じトゥルチンスキー門下だということ。なんか個性的な歌の中に懐かしいものを感じたし、共感する共通項みたいなものを感じていたのだ。壮絶な体験を経た人間にしか出来ない境地等と、軽く言葉にするのも申し訳ないが、幻のピアニストとはまさに彼女のことだ。1度は聴いてみる価値があるのでは?

a0041150_0514441.jpg技巧を凝らすというのは私には悪いイメージではない。つまり自分の個性的な音楽や歌い回しを再現するために、色々なことをすることだから、もともと音楽的な感性豊かな人でないと出来ない技なのである。最近はむしろ技巧を凝らす人は減ってきている。細かい音がどれも完全に聴こえるようなことではない。アムランが出てきてからは技巧に対する観念が変わってきてしまったようだ。そのアムランが得意なアルベニスは、もともとはコルトーのような粋で派手なピアニストが、楽しく素敵に聴かせるレパートリーだったのでは?うちでもアルベニスのイベリアをレッスンに持ってくる子は、技術の聖書でも弾くような神妙な面持ちで来るが、最初の1ページを聴いただけでつまらなすぎて吐き気がするよ(笑)。そんな私にはもってこいの素敵な演奏に出会えた。ネルソン・フレイレがカナダで1984年にやったライヴ。これは楽しい。最初のモーツァルトのソナタも現代的だが詩的で華やかでライヴそのもの。シューマンの幻想曲、第1楽章の演奏のテンションの高さも曲に相応しくゴキゲンだ。第2楽章の冒頭がちょっと抑えていて面白い。スクリャービンの第4番のソナタも、最近よくコンクールで聴かされる機械仕掛けの目覚し時計みたいな演奏ではない、ちょっと肉欲的な華やかさをもった本来の形。フレイレはアルゲリッチのボーイフレンドとして知った方も多いかもしれないが、私は彼がケンぺの指揮でグリーグの協奏曲でデビューしてきた頃からのファン。クールな部分もあるが、フラッシュのような光の炸裂を感じさせるピアニストだった。円熟度を加え若さも残し、ノリノリで弾いているこのライヴはお奨めだ。ヴィラロボスはお国物だから昔からうまかったけど、この楽天的なアルベニスのイベリアの2曲がとてもいい!今どき結構新鮮に聴こえるかもしれないね。フレイレはやはり素晴らしいピアニストだ。
by masa-hilton | 2007-10-19 01:09 | 休日は怒涛の鑑賞

休日は怒涛の鑑賞 また番外編

a0041150_3343189.jpg今日は僕としては大事件の日だった。知ってる人はみんな知ってるだろうが(笑)、ホロヴィッツの未聴のライヴを見つけたからである。それも幾つかの疑問点があるので考え込んでしまった。だがやはり素晴らしい内容で興奮した。

まずこのCDは2枚組。クレジットをそのまま書いていくと2003年のリリースだ。内容はスカルラッティのソナタ5曲(イ長調L494、嬰へ短調L35、ト長調L124、ヘ短調L118、ト長調L335)、クレメンティのソナタ作品36-3ハ長調、シューマンが3曲(ピアノソナタ第3番全曲、トロイメライ、アラベスク)、ショパンが2曲(華麗なる円舞曲イ短調、バラード第1番)、リスト2曲(忘れられた円舞曲第1番、泉のほとりで)、ホロヴィッツのカルメン変奏曲、モシュコフスキーの花火、ラフマニノフが6曲(練習曲音の絵33-5、33-2、39-9、前奏曲32-12、練習曲音の絵39-5、ピアノソナタ第2番全曲)と、ファンならば垂涎のホロヴィッツ・ワールドのお馴染みの名曲オンパレードである。このうちスカルラッティとクレメンティ、ラフマニノフが1970年5月4日のカーネギーホールでのライヴ、あとの曲は1967年の11月26日のカーネギーホールのライヴであると書かれている。

a0041150_3372534.jpgまずは紛らわしいことが1つ。クレメンティのピアノソナタ作品36-3という曲は、現在の整理番号では作品33-3である。あとホロヴィッツは1969年の秋から1974年の春までは、演奏をしていないという記録がある。つまりこの1970年という記載は真偽の程がわからない。ちなみに1967年の11月26日は、確かにカーネギーホールで演奏しているのだ。その日のプログラムを見ると、このCDのブックレットが益々信用できなくなる。

●November 26, 1967: Carnegie Hall,

Beethoven: Sonata in A major, Op.101
Chopin: Barcarolle in F-sharp major, Op.60
Chopin: Nocturne in F minor, Op.55 No.1
Chopin: Polonaise in F-sharp minor, Op.44

Scarlatti: Sonata in A major, K.101
Scarlatti: Sonata in F-sharp major, K.319
Scarlatti: Sonata in G major, K.260
Scarlatti: Sonata in F minor, K.466
Scarlatti: Sonata in G major, K.55
Schumann: Arabesque, Op.18
Rachmaninoff: Etude-Tableau in E-flat minor, Op.33 No.5
Rachmaninoff: Etude-Tableau in C major, Op.33 No.2
Rachmaninoff: Etude-Tableau in D major, Op.39 No.9

Encores:
Schumann: Träumerei, Op.15 No.7
Mendelssohn: Etude in A minor, Op.104b No.3
Horowitz: Carmen Variations


つまりこのCDと合致する曲はスカルラッティ、シューマンのアラベスク&トロイメライ、ラフマニノフ3曲、カルメン変奏曲である。このあとすぐ例のCD「オンテレビジョン」のコンサートがあり、それからはずっとバラードの1番を弾き続け、68年からラフマニノフのソナタを弾き「泉のほとり」もアンコールにしている。ラフマニノフのソナタに関しては1943年に弾いてからは68年までとりあげていないようだ。75年からは第3楽章をアンコールで弾いたりすることが多く、全曲は79年から82年までの間に弾いている。シューマンのソナタ、花火、忘れられたワルツは75年からで、特にシューマンのソナタの3番は75年から76年の間に集中して弾かれた。ちなみに76年の4月からのプログラムは以下の通り。ここにこのCDの曲が多く含まれる。ちなみにクレメンティのハ長調のソナタはこの年の後半からレパートリーに加えている。

Schumann: Arabeske, Op.18
Schumann: Sonata No.3 in F minor, Op.14
Rachmaninoff: Prelude in G-sharp minor, Op.32 No.12
Rachmaninoff: Etude-Tableau in E-flat minor, Op.39 No.5
Liszt: Valse Oubliée No.1
Liszt: Au bord d'une source
Chopin: Waltz in A minor, Op.34 No.2
Chopin: Ballade No.1 in G minor, Op.23

Encores:
Chopin: Nocturne in E minor, Op.72 No.1
Schumann: Träumerei, Op.15 No.7
Moszkowski: Etincelles, Op.36 No.6
Rachmaninoff/Horowitz: Finale from Sonata No.2 in B-flat minor, Op.36


話は前後するが、1975年11月16日と23日のライヴを集めたCDが出ていた。

a0041150_3475740.jpgSchumann: Blumenstück, Op.19
Schumann: Sonata No.3 in F minor, Op.14

Rachmaninoff: Prelude in G major, Op.32 No.5
Rachmaninoff: Etude-Tableau in E-flat minor, Op.39 No.5
Liszt: Valse Oubliée No.1
Liszt: Au bord d'une source
Chopin: Waltz in A minor, Op.34 No.2
Chopin: Scherzo No.1 in B minor, Op.20

こちらのCDは晩年のホロヴィッツに比べて、まだ輝きもありパワーも凄いが、それでも全盛期のものに比べれば見劣りがするし、もたつきがあるのも事実である。アンコールではラフマニノフの音の絵の39-9も弾くが、それに限らずかなりキズも多い。それから考えると、今日買ったCDでは、演奏はやや若い感じもする。そうなるとやはり1970年なのであろうか?(笑)日にちまではっきりでているのだから、もしかすると正しいのかもしれない。ま、細かいことはどうでもいいのだが。

さて話を今日買ったCDに戻そう。とてもすばらしい出来だ!まずは誰も真似の出来ないスカルラッティとクレメンティの至芸に、これだけで十分!と思えるほどの満足感でいっぱい。音は客席での内緒の録音。でもそんな「ひざの上」シリーズでも、気にならない。以前の「ボストン・ライヴ」に比べれば俄然良い。ホロヴィッツの全てを堪能できる。シューマンは75年のものに比べるとやや薄い。なので若いのかな?と思った。1楽章は曲の様式も崩れていないし、シューマンらしく聴こえてくる。終楽章はコクのある75年盤のほうが上か。アラベスクはタイムが8分以上あり、即興的な感じでいつもより遅めに弾いている。バラードもゆったりとしたスケールの大きな演奏だがキズは山のようにある。それでも感動ものだった。カルメン変奏曲はコーダに即興的なモティーフが入っている他に、細かい部分でも少し音を変えている。これは聴きものだ。会場に初めて聴く人がいたらしく、あちこちで笑いが起こっていた。花火はかなり調子が良い。やはり指のキレが若い感じもする。ラフマニノフの小品も素晴らしい。39-9の練習曲は75年盤と同じようなところで崩壊していたりするのも面白い。カットしての演奏だとは思えないし(笑)。実はその崩壊部分が耳についてしまって、僕は自分が舞台で弾くときにそれを思い出し、不安にかられてそこで崩壊してしまったことがあった(笑)。いやいや、笑い事ではないかもしれないが、そんなわけで現在この曲は封印中になっている(爆笑)。さてソナタは1楽章と3楽章の途中で音質が変わってしまっている。編集してあるのだ。それは違う録音の編集か、同じ演奏の音質違いの編集かはわからない。演奏自体にはキズもあるので、ミスを隠すための編集ではなく、多分欠落部分があってのことだと思う。それでも十分満足のいく素晴らしさだ。ひざの上の録音ということを考慮してか、会場の拍手は全て編集したもの。わざとらしいが、演奏を邪魔しないように心がけたというところだろう。

いずれにしてもデータのことが気になる。やはりこのCDもマニアの人にとっては、もう旧知のものらしいので、どなたか70年情報等を教えていただけるとありがたいのだが(笑)。(これは後日判明した
by masa-hilton | 2007-06-04 04:10 | 休日は怒涛の鑑賞