人気ブログランキング | 話題のタグを見る

バックハウスの弾くベートーヴェンの協奏曲

つい昨日、NHKの映像でバレンボイム指揮のベルリン・フィルでブラームスを聴いた。内からあふれるエネルギー、良く歌うフレージング、ヴィルトゥオーゾ・オーケストラともいうべき壮麗な音で、活き活きとした躍動するすばらしい音楽だった。すばらしい音楽であるのだが、私たちが子供のころから親しんでいたブラームスとは全く異質な音楽だった。それは最初の1音から、その音色からして全く別物だ。もちろんそれが悪いということではない。

昔の演奏にあって今の演奏にないものについては、多くの人が語っている。私は「素朴さ」だと思う。「素朴さ」というのは「未熟さ」にも通じるので、完成度の高い現代の演奏からは感じられることは特に少なくなった。もともとクラシック音楽は民謡・舞曲などが基礎にあるので、そこに「素朴さ」は存在すべきものだし、また貴族文化からもたらされた「エレガントさ」というものも必要なものだとされてきた。そうしたものを洗い流してしまって、「純音楽」としてどの民族にも共通の表現方法に演奏を変革させたのは、レナード・バーンスタインだ。「音楽には2種類しかない。良い音楽と悪い音楽だ」と言い切るバーンスタインの成功以降に、最近の演奏スタイルが導き出されたのだと思う。それが悪いわけがなく、私たちのような民族にとってはむしろありがたい方向性であるのだ。昔の演奏家の持っていた味わいは、日本人が実現する一番難しい表現方法であるのだから。

バックハウスの弾くベートーヴェンの協奏曲_a0041150_40104.jpg同時に最近はDVDで昔の演奏も次々復刻されていて、過去の巨匠のすばらしい演奏が陽の目を見ているのは、まさに財産である。そんなこんなの現代だから、特にバックハウスの演奏のようなものは、もう失われた世界と言っても良いかもしれない。ちょっと「テンポが遅くて自分勝手な演奏をするお年寄り」が登場すると、それだけで「巨匠的な演奏」とか評価されてしまう。驚いてしまうのだが(笑)そこには「素朴な感情表現」「味わい」「エレガントさ」のようなものはなく、欲深い醜悪な根性ぐらいしか存在していない。そういうものとはちゃんと差別化されなければいけないのだが、実際に判断を下す感覚が鈍ってきているのだとも思う。

「名人芸の本質」を見極められなくなってきた、そんな現代だから、バックハウスの弾くこの「味のある」「高貴な」演奏を「見る」ことができるのは本当に有意義だ。自分が出来るか出来ないか、または目指すか目指さないかは別として、こういう不滅の演奏も大切に、よく学び知っておくべきだと思う。
by masa-hilton | 2010-08-04 04:42 | 音楽・雑記
<< 夢の話 久々の「太田会」は、中野の「さ... >>