演奏の解釈、その思いと正しさ・・・ショパンの弟子ミクリの生誕200年を前に

よく聞くのは「あれはベートーヴェンじゃない」とか「正しいシューベルトじゃない」とかいう言葉。こういうことを軽く口にする人ほど、ほとんどの確率で真理とは遠い。死人に口なしをいいことに、偉そうなことを言っているにすぎなく、本当は知れば知るほど「正しい」などとは言い切れないものだ。畏怖を感じ、年齢とともにむしろ謙虚な気持ちになっていく。正統を口にする人ほど、例えばバルトーク、ストラヴィンスキー、R・シュトラウス、ラフマニノフなどの作曲者の自演には懐疑的であったりするので、そこで論理は破綻している。結局何もわからないということだ。

何もわからない!ということは恥ずかしいことではなく、それが基本となる。おまけにショパンのような人だと、ことあるごとに楽譜を書き換えてしまうので、答え自体も1つではない。私たちは譜読みして弾けるだけなら3日もあれば何でも弾ける。仕事としてそういうタイミングを求められることもあるけど、なるべく多くの時間をかけなければならない。それは正しい解釈と言われているものを知り、表面だけでなく深めたいということもあるが、演奏そのものに歴史と流派もあるし、各人の持つ個性もある。その広い選択肢から、可能性と結論を見出すための時間と言って良いだろう。昔の先生は「人の演奏を聞くな」とよく言っていたものだが、それは愚かなことだ。普通にまず50人は聴きたい(笑)、じっくりと。そこからも伝統の継承というか、真理も見えてくるからで、楽譜も然り。楽譜こそだね。なるべく多くのものを見るべきだろう。

だから1年かけて弾いて、さらに1年か半年休んで、また1年弾いて・・・・みたいな、煮込み料理のような勉強が効果的。私のようなものでも、これまでレコーディングしてきた曲は皆そうしたものばかり。専門家によれば「さすがに完璧だ」と褒めてもらえるディテールにこだわっている、それがあたり前で心がけの1つだ。そんな次のレコーディングで考えているものに、ショパンのプレリュードがある。ショパンの最高傑作でもあり、演奏者のファンタジーと質が試される曲でもある。これを、ショパンの弟子であるカロル・ミクリが来年生誕200年を迎えるので、ミクリの版で演奏するのはどうか?ということを考え中。

a0041150_20524680.jpga0041150_20531632.jpgショパンは先ごろ亡くなったエキエルのナショナル・エディションがまとめられて以来、逆に楽譜に対する考えかたが物議を醸している。本来なら自筆譜に基づく原典版という流れで、誰もがそれに従いそうなのであるが、そうでもないのは、まずはエキエルの演奏に説得力がないので(笑)、パデレフスキやコルトーなど、あるいはルービンシュタイン、個性的なホロヴィッツやソフロニツキを前にして、全く魅力そのものがない。同時に長年親しんできた流れというものがあるので、今日からこれだ!と言われても、簡単には従えない。ショパンには国によっての流派もあるばかりか、ショパンその人もレッスンのたびに書き換えたりと、わりとラフな姿勢を見せているので、そこに縛りも効きにくい。ヘンレ版なども新版を出して来るので、原典版の研究は年々進んでいく。同じことはベートーヴェンにもあるけど、すでにバックハウスやリヒター=ハーザーなどによって、ゆるぎない名演が遺っているのに、それを打ち消して上書きするような新しい研究というのには、正直抵抗がある。バックハウスなどの演奏を継承することもまた、1つの演奏家の在り方のようにも思う。ベートーヴェンでもそう思うのだ。

そのベートーヴェンを弾くと、誰しも経験するのが「ここはベートーヴェンが書いたペダルです」というやつ(笑)。どの曲にもそれはあるのだけど、わかりやすく言うと「テンペスト」や「ワルトシュタイン」などなど、どんなに濁ろうが1つペダルで踏みかえナシに踏み倒して弾く(笑)、あれである。そしてこれは作曲者の指示ということで、逆に濁らないようにきれいに踏みかえようものなら違反行為になって、コンクールなどではほぼ確実に減点される。濁らずに完璧に踏めるのはピアニストの優秀さを示すものだから(笑)、不思議って言えば不思議で、でもそれが正しいから!と言われれば従うしかない。

最近はこれがショパンにも適応されつつある。ショパンの自筆譜に示されたペダリングは個性的で、高い音楽性なしには出来得ない優れたものではある。そしてそこにはっきりと意図が示されているので「その通り踏むのが常識だ」と言えば、これもその通り。ムジカルタで会った教授もその意見だったし、まさに正しいことだ。しかしショパンの時代の楽器と現在のものでは、明らかに性能が違う。また多彩な音色を示せる技術のピアニストがいて、それらの条件を知れば、あの書き足しをこだわらぬショパンのことだ、平気でペダルぐらい書き直したであろうとも思える。ポーランドの演奏家でも細かいペダリングを強調する人もいるし、ノンレガート的なタッチで弾くフランスの流派ならば、当然ペダルは魔法のようなテクニックを必要とする。はっきりしていることは、大まかなペダルは当然音色の変化が乏しい。音色に個性があるピアニストならば、自筆譜のようなペダルを踏んだら非常にもったいない。そのペダル云々以上に、ショパンの音楽世界を明確に表出できる術があるということだ。

私は常々パデレフスキ版を推奨してきてはいるが、自分が弾くときには、曲によってはミクリの版を使っている。理由は味わいの違い。音が理屈に合わない場合もあるし、明らかに原典とは違うことが多いし、何しろアーティキュレーションが全く異なるので、これでコンクールなどに行ったらまずは受からないだろうと思う。ミクリはショパンの弟子ということで、その演奏法について実際にショパンを身近に聴いていた立場で、いろいろなことを伝承している。そのアーティキュレーションの違いが、時に、新鮮にアンティークな風情を起こす時があったりするのも納得だ。エキエルばかりではなく、ジェビエツキの系統はミクリの流派に対して意識的に否定的だったように思うので、例えば弟子のコチャルスキのようなピアニストまでが、そのあおりを食っていた。

a0041150_20534716.jpga0041150_20541699.jpgコチャルスキについてよく言われるのは、ショパンのルバートに対する考えかた。大きな木の幹は動かないが枝葉は動く・・・みたいなことで、左手はあまり動かず右手が自由に歌う。これがコチャルスキの弾き方だというわけ。右手と左手がズレズレになるのは、パデレフスキだってラフマニノフだって、コルトーだってそうだから、何もコチャルスキの専売特許ではないし、彼の演奏の魅力を伝えることではない。ミクリの弟子で現在その演奏が聴ける人と言えば、このコチャルスキ以外にもローゼンタール、ミハウォフスキなどがいる。この3人に共通しているのは、速い部分での夢のような軽やかなタッチ。先ほどのルバートの件は、カンタービレな歌の歌わせ方のテクニックの1つだから、より注目したいのはわかるが、本来はこの軽やかなタッチが重要だ。なぜなら現代のピアニストにはない、失われてしまった味わいだからである。このタッチがもたらす独特の香りは、おそらくミクリが伝えたショパンの持ち味なのだろう。

ミクリのやり方には彼なりの味があったと思うのだが、当時のピアニストたちはみんなそれぞれに、そのやり方を理解していたのである。例えばレシェティツキのピアノ・ロールも、ショパンの伝承の装飾を使って弾いているので、当然そのタッチもショパンのものと通じていたに違いない。プーニョのタッチもフランス派のピアニストの流派のそれとも思えるが、もとはショパンの弟子マティアス門下であるので、伝承されていたはず。同時代であれば当然のことのようにディエメ然り、パハマン然り、続くコルトー然りである。このブログでも何回か取り上げたが、コルトーがメンゲルベルクと共演したショパンの協奏曲に、それははっきりと示されていた。コルトーの正規の録音はオンマイクということもあり、その本当の味わいまでは録音されていなかったというのが、このオフマイクな録音で見えてくる。ついつい我々は日本人だから、フランスの粋な部分をコルトーに見てしまうが、さすが大ピアニストの彼はミクリ以来のタッチを身につけていたのだった。ミハウォフスキ門下にはヴェデルニコフやネイガウスがいるのが面白い、こちらは別物になっているよね、やはり時代的な環境か。

さてミクリ版、プレリュードに関しては一番大きな問題というか、それは24番のメロディだろう。普通はこちら。
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ミクリ版はこれ。めったに聴かれないし聴き慣れないが、これで弾いてみると感情は入れやすい。
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このように弾いているのは誰もいないと思いきや、ルービンシュタインがいた(笑)。ま、ローゼンタール門下だということを考えると頷けないこともない。さてこうした問題点も含めて、私のプロジェクトを人はどう思うのだろうかと(笑)、いささか気になってきたので、最もこういうことに詳しい人・・・・といえばピアニストであり研究者でもある下田幸二さんだ。さっそくメールをしてみる。

「時流に逆らうような馬鹿なことを考えてる」と呆れられたのだろうか? 1か月以上返事がない!!(笑) それも仕方がないなと思っていたら、来た来た!!来ました! いや、これは・・・・本の執筆でもないのにお時間をとらせてしまって、マジに申し訳なかった~。なんて丁寧な、そして的を得た見識だろう。さすが信頼に足る!ご許可を戴きましたので、一部引用してみよう。

ミクリ版の件、なんとお答えしたらよいか困っているうちに時間がたってしまいました。申し訳ありません。ミクリ版での録音とのこと。歴史的価値はあると思います。ただ、現代は、ご承知の通り、ナショナルエディションやペーテルスのニュークリティカルエディション、ヘンレの新版などにより、原典研究が大いに進んでいます。ミクリ版は、自筆譜と初版譜をもとに、「ショパンの間違いと『ミクリが考えた』多くの訂正」を入れ、またミクリが弟子として聴いた「ショパンの演奏スタイル」を楽譜に記入した版と言えます。

そう、そこが引っかかるところ。やはり生きた伝統の継承を考えると演奏の伝統の継承も必要。独特な味わいもあるので。きっとミクリ自身は情報の集め方に問題があっただけで、原典版みたいなものを作りたかったのかもしれない。

例えば、バラード第3番ですが、よく問題になる第102小節1拍目のタイによるEs音掛留をミクリはナチュラルを付けてEに訂正します。それは右手第5拍に現れるE音により生ずるEs-E間の和声的対斜を避けるためですが、しかしこれは正しいと言えるでしょうか。Es音のタイは自筆譜を見ても明らかで、ショパンがそこにナチュラルを忘れたとは言い難いと思います。E音は確かに協和的にすっきり響きますが、ショパンはタイによる掛留音により第5拍と生ずる程度の対斜はむしろ美しいと感じたのだと思います。
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ここはパデレフスキ版もEsになっているので、たぶんコンクールなどに出てきたらEsで弾かなければ、私も点をあげないと思う。でも私自身がどう弾いているかというと、Eで弾いている(笑)。そのほうが色が出るので。恋に落ちるような情感が出るではないか。そして「説明しろ」と言われればコルトーの意見と同じ。
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コルトー版もミクリ版と同じEだ。前小節のEs音が本当はDisの役目をしていると考えられ、どうしてもこちらが自然だと言っている。もっともな感じだが、この意見は胡散臭い。胡散臭くてもだ、色が出るほうを私はとりたい。これゆえに私はバラードの3番はコルトー版を使用しているのである。185小節からの「呪いのホルン」と名付けられているテヌートの強調も採用していて、これは演奏には効果的な暗示を与えてくれる。
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しかし26小節目からの両手の分散和音の、このアーティキュレーションはさすがに使えない。残念ではあるが。
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こちらはパデレフスキのものが圧倒的に音楽的。そして美しく自然だ。
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また、バラード第4番においてはナショナルエディション以来近年よく問題になる第124小節の短9和音(減7和音)の長9和音化は、ミクリは常識的な短9和音(減和音)の響きにしています。これは頷けますし、私もそう思います。ただ、私はエキエル先生主張のFes-Es-C-B-F-EsというAs-durの音階音化した長9はないにしても、自筆譜どおりのFes-Es-Ces-B-F-Esの最後だけ長9化する可能性はゼロではないとも思っています。
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ここについては自筆譜で弾いていた。そのほうがずっとロマンティックではないか。バラードの4番は基本はパデレフスキ版の使用だが、この部分に関して言えばアーティキュレーションのことが気になっている。2音符ずつの小さなスラーだが、これがない、1つスラーだけの楽譜がある。小さいスラーがないと、次の旋律が踏ん張った感じにならないので、より抒情的な表情が導き出される。さてどうしたものか。

一方で、ミクリが書いた「ショパンの演奏スタイル」、つまり多くのサロン風のアルペッジョなどはどうでしょう。例えばバラード3番の第88小節からの一連の右手のアルペッジョなどは、出典がはっきりせず、果たして楽譜にすべきであったのか。たとえ、ショパンがそのように弾いたのをミクリが聴いたことがあったとしても…。さらに一方で、バラード第3番や舟歌のペダリングはショパンの綿密な自筆譜によっており、たいへん見やすく正しいと思います。しかし、幻想曲は自筆譜が参照できておらず、パデレフスキ版同様大きな問題があります。

ペダルに関しては私は常に細かく踏んでいくので、いずれにしろあまり影響は受けないけど、バルカローレに関しては自筆譜のペダリングはとても音楽的なので、まずは把握できるまで練習してみることが必要だと思っている。

他にも音、フレージング、ペダリングなど、原典研究として重視すべきことに、現代となってはミクリの楽譜は遅れている部分も残念ながらあると考えます。あえてミクリ版を録音なさるというのは、なにか歴史的なものや原典研究との相違などの意味付けをなさるのでしょうか。たいへん面白いとは感じますが、相当のご覚悟のいる録音とは思います。

プレリュードで言えば、細かいことだけど、例えば11番のこういう感じの差が、かなり違うニュアンスを呼ぶ。こちらがパデレフスキ。
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ミクリの版は独自のものだが、これはむしろ良いニュアンスが出そうだ。
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ラストの前打音の右か左かも微妙な影を落とす。終わりかたのアーティキュレーションはいかがだろう?いずれも下が、ミクリの版である。
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下田さんに大感謝。またこうしたお話がいろいろできれば楽しい限り。私は返事で「学問ならば新しい発見や、新たな証拠が見つかれば、以前の説は否定されて上書きされてしまうが、音楽は解釈だから、その時代の演奏や流派の歴史そのものだし、何しろ心が通うものだから、正しい正しくないは別として、失われてしまったらそれは寂しいんです。」と書いた。演奏される下田さんだからこそ「それ、よくわかりますね~~」という返事で、これも嬉しかった。

おそらくミクリが生誕200年なんて誰も気がつかなかっただろうし、私が書くまで、それについてのアイデアを持っていたピアニストなんて・・・・きっとひと握りだったろう。シャーマー版は非常にお安い楽譜でもあるので、ぜひミクリ版もご覧あれ。消えゆく伝統を失わないために、私たちはいろいろな思いで演奏を続けていければと願っている。ちなみにミクリの弟子にはアスケナーゼ教授の母親もいる。アスケナーゼは母に手ほどきを受けて、ザウアーに習っているので、その演奏に色濃く影響が遺っていない感じもあるが、ショパン弾きとして有名だったしアルゲリッチなどを教えている。そうか、アルゲリッチはミクリ派でもあったのか(笑)。


by masa-hilton | 2018-09-27 10:51 | 音楽・雑記
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