ガーシュインのピアノ協奏曲  オスカー・レヴァント

a0041150_16273961.jpg私がキーボーズをやっている時に、一部批判的だった人たちに「将来それでどういう風になりたいわけ?」とよく聞かれて「そりゃ、歌って踊れるピアニストでしょ」とジョークで返していたが、歌って踊れるピアニストなんておそらくオスカー・レヴァント(OSCAR LEVANT,1906~1972)以外には誰もいない。しいて言えばダドリー・ムーアだがクラシックのピアニストとしてはイメージが弱い。

レヴァントはある意味ホロヴィッツやルービンシュタインよりも有名人である。それは映画史に残るような不滅の名画に多数出演しているから。特に有名なのはジーン・ケリーと共演した「巴里のアメリカ人」。ここではかなりパロディ的な演出でありながら、ガーシュインのピアノ協奏曲の3楽章を良い調子で弾いている。フレッド・アステアとの「バンド・ワゴン」では、なんとあの有名な「ザッツ・エンターテインメント」という曲をアステアたちと歌っている上に、ピアノを弾くシーンがほとんどない(笑)。そしてガーシュインの伝記映画「アメリカ交響楽」。

a0041150_16365627.jpg「アメリカ交響楽」はガーシュインの死後8年で作られた映画で、関係者の何人かはその本人が実名で出演しているのが驚きの作品だ。ラプソディ・イン・ブルーを委嘱し初演したポール・ホワイトマン然り、そしてガーシュインの友であったレヴァントも然り。レヴァントもまたここで伝説上の人物の1人として登場して、ガーシュインの名曲の数々に生き生きとした輝きを与える演奏を行っている。実際ラプソディ・イン・ブルーやピアノ協奏曲を今日までの人気曲にした功績は、レヴァントの演奏にあったといって過言ではないだろう。ガーシュインの死後に行われたメモリアルコンサートで、レヴァントは協奏曲を弾くのだが(録音あり)、それ以来この曲はレヴァントの名刺代わりの曲となる。左のコステラネッツ指揮での1942年の録音は決定的なものとして知られているが、44年4月2日のトスカニーニとの共演ものも手に入る。私はガーシュインの協奏曲といえば、若き日のアンドレ・プレヴィンの演奏が大好きだが、その時の指揮者がこのコステラネッツ、さらに言えばあのガーシュインのメモリアルコンサートで、レヴァントとこの協奏曲を共演した指揮者がアンドレ・プレヴィンの父親だったのだ。その影響の大きさやめぐり合わせの面白さも感じるが、やはり伝統は受け継がれるものなのである。

a0041150_16571461.jpg彼のピアノは映画を見ていても、特別に繊細だったり、音がきれいだったりするわけではないが、やや速めのテンポで、迷いのないストレートな解釈でわかりやすい。味わいがあったり奥行きがあったりする感じではないが、それでもおそらく直感的なものとセンスで、あらゆる楽曲をそれなりに料理できてしまうプロフェッショナルだ。ショパンやプーランクをソロで弾いたCDもある。それらCDを聴き比べてどれも落差があまりない。特に上のガーシュイン・アルバムは輝いている。こちらも名演だがオーマンディとのラプソディ・イン・ブルー、アイガットリズム変奏曲や3つの前奏曲でも妙な叙情性を捨てたシャープなスタイルが心地よい。ちなみにトスカニーニ盤のラプソディ・イン・ブルー(1942:ライヴ)のほうはピアノが若き日のアール・ワイルド、クラリネットがベニー・グッドマンという顔ぶれ(笑)。なのに思ったほどではなかったりするのが、また面白い。

a0041150_18371913.jpga0041150_17102298.jpgオスカー・レヴァントがかなりな実力を持っていたことは、まずはこの1947年のチャイコフスキーとグリーグのピアノ協奏曲のCDで認識できる。同じ頃に録音されたルービンシュタインのグリーグを聴けば、レヴァントのほうに軍配が上がっても良いと思う。解釈も期待以上に的確で普遍的だ。彼がいわゆるハリウッド的な活動をしたために、ピアニストとしては正当な評価を受けられていないと嘆く人も多い。作曲家としてスタンダードも残す一方で、クラシカルな作品も多く遺し、このコープランドのCDで室内楽に参加していることも、知られているようで知られていない。この他ミトロプーロス指揮のアントン・ルービンシュタインの第4協奏曲もあると聞く。

a0041150_17133065.jpgTVでも自分のショウも持ったり、人気もあり、こうして華やかに楽しく幸せな活動をおくったとしか見えないレヴァントだが、映画の撮影においては自分の失敗や鬱憤を人のせいにして、あたり散らかす最悪の人間ぶりを発揮したらしい。本人自体も異常なまでの心気症で、いつも「あそこが痛い」「ここが痛い」と騒いで悩み、他人に迷惑をかけていたようだ。よく考えればピアニストである。それが俳優としてエンターテイナーとして、それもハリウッドで第1線に君臨するには、耐え難いストレスがあってあたり前と同情もできる。50年代に最初の心臓発作が起こり、活発な活動はストップせざるを得なくなった。まさに本人が気に病んだ通りになってしまったわけで、さらに薬漬けへと進行してしまったようだ。次の発作で亡くなるのは1972年のことだから、晩年は大きな苦しみが彼を襲っていたに違いない。

「何がその人にとって幸せなのか」ということは、他人には絶対にわからないし、本人にもどうすることもできないものだ。華やかで幸せそうに見えたとしても。
by masa-hilton | 2007-08-22 00:16 | 大ピアニストたち
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